「禅をならう」集い
「禅をならう」集いというのは、思い返せばいろんな思い出があります。
まだ学生の頃、白山道場の小池心叟老師のもとにいて、臨済会のお手伝いをさせてもらっていたものでした。
臨済会は、
「戦後世相なお混沌としていた昭和24年の秋、
東京を中心に臨済宗に所属する有志が集まって、
教化の実践面に新しい活動をしようという機運が熱し、
会が組織されることになった」
ということから発足した会であります。
松原泰道先生も草創期に関わっておられました。
私の師匠の小池心叟老師も長らく臨済会会長を務めておられました。
臨済会のホームページには、
「戦後の混乱が残る東京において、臨済禅の布教伝道を第一の活動として昭和25年『法光』誌を発刊し、以後年4回発行を続け、令和3年秋彼岸号で288号を迎える。
年間40万部を発行している。
会務の報告・布教資料の提供を目的とした『臨済会報』も発刊され、現在に至る。
また年1回「禅をきく講演会」および「禅をならう集い」を開催。
臨済宗各派管長猊下や専門道場の老大師を講師にお迎えし、深い禅の教えを拝聴する機会としている。」
という活動がなされています。
毎年秋に、都内の大きなホールを借りて、「禅をきく講演会」が開催されて、そして、十二月に成道会を兼ねて「禅をならう集い」が開催されていました。
私が学生の頃には、専ら会場は全生庵さまでありました。
都内のいろんな老師がお見えになって提唱をなされていたものでした。
そこで老師方の風貌に接するのが楽しみでありました。
ある老師が、無門関の非心非仏の公案を提唱されていました。
どうして数ある公案の中から非心非仏を選んだのかというと、その老師は、この公案が一番短いからだと仰っていたのが今も覚えています。
その頃は謙虚な老師様だと思っていたのですが、今思うと、短い公案を提唱するほど難しいものはないのです。
その御老師は、自信があったのだと今になって思います。
一時間の提唱だとばかり思っていたのですが、実際にはお経の時間などもあって、35分ほどの提唱でした。
私は四弘誓願についてお話したのでした。
人はいろんなことを願うものです。
願いがあるから生きられるとも言えましょう。
あの鳥のように空を飛びたいと願えばこそ、飛行機を作り出したのでした。
いつか月に行ってみたいと願って、ついに月までゆくことができるようになったのでした。
ここで坐禅したり修行できるようにと願えばこそ、このお寺もできたのでした。
仏教でも願いを大切にしています。
菩薩さまがたはそれぞれ願いをもって、その願いをかなえて仏さまに成られたのです。
道元禅師は、『正法眼蔵随聞記』第三に「切に思うことは必ず遂ぐるなり、切に思う心深ければ、必ず方便も出で来るべし」と仰せになっています。
心に強く思い願うことは必ず実現するという意味です。
すべての人が私の国に生まれたいと願って十回私の名前を唱えたら、必ず私の国に生まれるようにしてあげよう、もし生まれることができないなら私も悟りを開きませんという願いを立てた菩薩さまがいらっしゃいました。
十回名前を唱えたら、みんな苦しみのない安らかな世界に生まれさせてあげるというのです。
こんな願いを立てて仏さまになったのが阿弥陀さまです。
そこで多くの方が阿弥陀さまの名前を唱えるようになったのです。
それが「南無阿弥陀仏」であります。
過去どれくらいの方がこの仏さまの願いを信じて念仏したか数え切れないのであります。
観音さまは、十の願いを立てられました。
南無大悲の観世音。願くは、我れ速に一切の法を知らむことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ早く智慧眼を得むことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ速に一切の衆を度せむことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ早く善方便を得むことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ速に般若船に乗ぜむことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ早く苦海を越ることを得むことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ速に戒定道を得むことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ早く涅槃の山に登らむことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ速に無為の舎に會せむことを。
南無大悲の観世音。願くは、我れ早く法性身に同ぜんことを。
という十の願いです。
七難と言いますが、「火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難」とございます。
たとえ火の中であろうが、水に溺れようが、高い崖から落ちようが、刀で切られようとしようが、観音の名前を唱えたら必ず救うという願いを立てられたのであります。
その願いを信じて、私たちは、南無観世音菩薩とお唱えするのです。
どんな仏さまにもそれぞれ独自の願いがございます。
それに対してどんな仏さまにも菩薩さまにも、またもっと言えば仏道を学ぶ者すべてに共通する願いというのもございます。
それが四弘誓願という四つの願いなのです。
まず第一に生きとし生ける者の悩み苦しみは限りないものですが、これを救ってゆこうと願うのです。
第二に苦しみの原因となる煩悩は尽きることがないのですが、これを誓って断ってゆこうと願うのです。
第三には、仏さまの教えは限り無くあるのですが誓って学んでゆこうと願うのです。
第四には、仏道はこの上ないものだけれども誓って成し遂げるように願うのであります。
この四つの願いは仏道を学ぶ者ならば誰しも持つべき願いなのであります。
私たち禅宗の修行においては、最も多くお唱えする経文であります。
この四弘誓願こそ、仏道の基本であり、すべてであると言ってもよろしいかと思います。
そんな話をしたのでした。
かつては仰ぎ見るような老師さまがなさっていた提唱を、今や私如きが勤めるとは、なんとも忸怩たる思いでありました。
またその日には、臨済会会長である平林寺の松竹寛山老師もお見えくださっていました。
私の拙い話を、なんと恐れ多いことに廊下で聴いてくださったのには頭が下がりました。
龍雲寺の細川さんもお越しくださって、お世話になりました。
有り難い会でありました。
横田南嶺