北条時宗公を憶う
時宗公は弘安五年(一二八二)に、円覚寺を開創されました。
その前年に、弘安の役があり、そこで亡くなった多くの人達を弔う為でもありましたし、宋の国から招いた仏光国師の為でもありました。
円覚寺の開創と元寇とは大きな関わりがあります。
モンゴル帝国というと、かの有名なチンギス・カンによって創設された大国であり、その子孫達によって国土は大きく拡大されていました。
最盛期には、西は東ヨーロッパ、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、その領土を拡張していたのでした。
第五代皇帝のクビライ・カアンは、文永五年(一二六八)、日本に対して高麗を通じて、国交を求める国書を遣わしました。
その年に、わずか十八才で執権に就任したのが時宗公であります。
時宗公は、「兵を用うるに至りては、それたれか好むところならん」という脅しとも取れる言葉の入った国書を無視しました。
その後再三にわたり、国交を求めてきたにも関わらず、時宗公は一切取り合いませんでした。
そしてついに文永十一年(一二七一)、モンゴルは、国を大元に改め、高麗に命じて約四万の軍勢をもって日本を攻めさせました。
これが文永の役です。
元の軍は対馬、壱岐を蹂躙し、博多湾を襲い、箱崎附近に上陸しました。
日本の武士たちも懸命に応戦し、少弐景資(かげすけ)が追撃する敵将であり、副司令官にあたる劉復享(りゅうふくこう)を矢で射落としました。
追撃をあきらめた元軍は海上に退却し、その夜のうちに撤退していったのでした。
明くる年には、元の使者、杜世忠(とせいちゅう)らが来航しましたが、幕府は鎌倉に護送しました。
時宗公は鎌倉龍ノ口において使者を斬首の刑に処しました。
これについてはいろんな見方がなされていますが、時宗公にしてみれば、元に対して毅然と戦う決意を示したのであろうと察します。
その後、次の襲来に備えて博多湾岸に石塁を築かせ、朝廷もまた全国の寺社に国難打開の祈禱を命じました。
亀山上皇は、勅使を伊勢神宮に遣わして「国難に身を以て代わらん」と祈りを捧げたのでした。
弘安四年(一二八一)、元は東路軍四万の軍勢を朝鮮半島から派遣しました。
南軍を十万の軍勢をもって攻めさせ能古島、志賀島鷹島に上陸しました。
両軍必死の戦いが続きましたが、暴風雨によって大軍は撃破されてしまったのでした。
時宗公は、二度にわたる元寇の心労が重なってか、弘安七年(1284)病の床に伏すようになり、出家得度して四月四日に亡くなりました。三十四才でした。
元からの国書の届いた年に十八才で執権に就任し、二度の元寇を乗り越えて、まさしく国難に身を捧げた一生であったと言えます。
『仏光国師語録』には、北条時宗公が国の安寧を祈って金剛経や円覚経、般若経典などを血書して、仏光国師に説法を請われたことが書かれています。
その時の仏光国師の法語を意訳してみます。
「太守時宗公が、諸経典を血書してこの国を助け守り、国師に説法を請うた。
若しこの大事な教えを論じるなら、ただ真っ向から取り組む事が肝要だ。
若し戦いを論じるならば、絶妙な事は、その場その場で状況に応じて千変万化することだ。
金剛王宝剣のように、少しでもためらうとどこもかしこも死人ばかりになる。
帝釈天の旗のように、あらゆるよこしまな風がおそうこともない。
転輪聖王の宝珠のように、あらゆる悪毒はみな遠ざかってしまう。
百獣の王である獅子のように一度吼えると、あらゆる獣たちは息が絶える。
太陽のように、ひとたび照らすとあらゆる闇はあとかたも無くなる。
このすばらしい事は、高いといったらこれ以上高いものは無く、大きいと言ったら、これに比べる大きいものはない。
十方世界に満ちわたり、過去現在未来を貫いている。
仏法を守り、民を守って刀に傷ひとつつけずに敵を倒すことが出来る。
よこしまなものを破り、正しい道理を顕して、虎の穴にこもる魔軍を払いのける。
仏さまの力と諸天の力とともにめぐらして、王公の力と万民の力と斉しく新しい。
まさにこのようなときに、凱旋の一句はどのように言い表そうか。
万人が斉しく仰ぐ処であり、一本の矢で天山を射貫くぞ。」
というものです。
朝比奈宗源老師は、その著『覚悟はよいか』に、
「ここは鎌倉だ。このお寺(円覚寺)は、北条時宗公が、はるばる中国(南宋)から迎えた仏光国師(無学祖元)のために建てた寺だ。
北条時宗公というのはねえ、日本の歴史で日本の国難を救ったただ一人の人といっていい。
我々の歴史の英雄だ。よく考えてくれ。
わが国民が、国難のために真剣に戦ったというのは、今度の大戦を除くと、元寇 (文永十一年一一二七四、弘安四年一一二八一)の時だ。それから、日清・日露戦争だなあ。
そのほかは、民族内で内輪喧嘩ばかりしていた。
ただ一つ例外的な豊臣秀吉だって、日本の武士に論功行賞に与える土地がないから、朝鮮を取るんだなんて、子供みたいなことをいっちゃって、無茶をやった。
時宗は、そうではない。あの通り元(中国)は世界侵略のほんの一節として日本を攻めてきた。
日本はそれで消されてしまうおそれがあった。だから、国をあげて夢中になって戦った。」
と書かれています。
そんな時宗公を憶って、毎年ご命日に仏日庵で読経しているのであります。
横田南嶺