相反する教え
たとえば、何かを試みて二回うまくゆかなった時にどうするのか、「二度あることは三度ある」ということわざがあるので、三度目はやめとこうと思うか、それとも「三度目の正直」ということわざもあるので、三度目こそと思ってやってみるのか、迷うものです。
「善は急げ」ということわざもあって、急がないとと思うこともあるし、逆に「急いては事をし損じる」ということわざもあって、急ぐのはよくないという場合もあります。
「君子危うきに近寄らず」といいますから、危険なところには近寄らないのが賢明だと思うこともあれば、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といいますから、あえて危険なところに臨まないと事は成就しないということわざもあるものです。
馬祖禅師の言葉にこんな教えがあります。
禅文化研究所発行の『馬祖の語録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「示衆に言われた。
「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。
何を汚れに染まるというのか。
もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
何をあたり前の心というのか。
ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。
経に言っている、『凡夫の行でもなく、聖人賢者の行でもない、それが菩薩行である』と。
今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。
道というのはつまり法界である。
更には、浜の真砂ほどの秀れた働きも法界を出るものではない。
もしそうでなければ、どうして心地法門といい、どうして無尽灯というのか」。
これが馬祖禅師の平常心是れ道という教えなのであります。
その教えを受けているのが臨済禅師であると言えましょう。
『臨済録』にこんな言葉があります。
こちらは岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳です。
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。
君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることは できぬ。たとえ、過去の煩悩の名残や、五逆の大悪業があろうとも、そちらの方から解脱の大海となってしまうのだ。」
というのであります。
この言葉を受け取ると、ただありのままであればよいのだと思ってしまいます。
ところが同じ『臨済録』にはこんな言葉もあるのです。
「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。
わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。
その後、大善知識に逢って始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。」
というのであります。
鈴木秀子先生の本の中に、おじいさんとおばあさんのこんな話が載っていました。
ある女性が田舎から都会に働きに出ようというときに、おじいさんとおばあさんがそれぞれ話をしてくれたというのです。
おばあさんは「あなたはこれから街に働きに出るのだから、自分のことは自分で責任持ってしっかりやりなさい」と言いました。
しかし、隣で聞いていたおじいさんは「全部が全部、自分のことは自分で責任とるなんていうのは無理だよな」と呟きました。
それが何回か繰り返されます。
おばあさんが「ちゃんとしっかりやりなさい」と言うと、おじいさんはポツリと「なんでもかんでも人間はきちっとは行かないものだ」と反対のことを言うのです。
その女性が年をとってからこう言いました。
「自分が一生涯どうにか生きてこられたのは、その二つの教えがあったからだ」と。
「これではいけない」と一所懸命努力をしようという気持ちと、「そう思ってもなかなか人間は努力ばかりできないもの
だ」という気持ち。
自分を肯定してくれる人と自分を否定してくれる人、それぞれの二つの教えがあったから、今日まで生きてくることができたというのです。
「いつもきちんとしていなければいけない」と自分を厳しく否定するおばあさんの教えだけであれば、きっと人生に行き詰まっていたかもしれない。
逆に、おじいさんの言うように、「まあそんなに無理しなくていいんだ、そのままでいいんだ」という教えだけを聞いていたら、自分の人生は自堕落なものになっていたかもしれない。
この二つの教えが自分の人生を支えてくれたのだというわけです。
常に前を向いて前進しなくてはいけないとなると、人間は疲れてしまいます。
ときには「このままでいいんだ」と現状の自分を肯定することも必要なのです。
禅の歴史もその通りになっています。
馬祖禅師の「ありのままでいい」という教えと、馬祖の教えのすぐ後には、弟子たちから「それではいけない」という教えが出てきました。
禅の歴史には、この二つの教えが交互に出てまいります。
「このままではいけない」という教えが強調されて表に出てくるときには、「ありのままでいいんだ」という教えが裏で支えているのです。
「ありのままでいいんだ」いう教えが表にあるときは、「このままではいけない」という向上心が裏にあるのです。
そういう相反する教えがあるということが非常に大事ではないかと私は思います。
横田南嶺