般若心経を語る
山荘は、北鎌倉の明月院から更に奥に入ったところにありました。
あらかじめ村上さんから住所を教わっていたのですが、その当日もだいじょうぶですかと念を押されたましたので、長年托鉢で回っていたところなので、あのあたりの家はよく分かっていますとお答えしたのでした。
管長も托鉢していたのですかと問われましたので、修行時代はもちろんのこと、管長になってからも、コロナ禍の前までは托鉢していましたと答えるととても驚いていました。
その日は、とてもあたたかく、歩いてゆくと汗ばむくらいでありました。
三十七名ほどの集まりだというので、二十五冊ほど私の『はじめての人におくる般若心経』を持って行きました。
それくらいの量なら、自分で行商人よろしく担いで行こうとしたのですが、そばにいる若い修行僧から、重たいのでお持ちしますと言われてしまいました。
たいへん有り難いご好意でありますが、私としては少々愕然としてしまいました。
かつては、私が自分で持ってゆくと言えば、どうぞと言われたものです。
それがもう今年六十のおじいさんとなって、重たいからたいへんでしょうとお気遣いくださったのであります。
有り難いのと、それだけ年を取っていると思われているのだと、当たり前のことながら再認識したのでした。
しかし、実際には25冊はけっこうの重さなので、持ってもらってたすかりました。
青木さんという方の山荘で会は行われました。
その日のことを村上さんはすぐにブログに書いてくださっていましたので、そのまま引用させてもらいます。
「北鎌倉の青木山荘で、円覚寺管長の横田南嶺さんとの茶話会。
汗ばむ陽気の中、円覚寺から横田さんは15分ほどの道のりを歩いて来られた。かつて托鉢して歩いたところなので土地勘もあるとのこと。
きょうも泰然自若、飄々とした横田南嶺さんであった。
きょうのテーマは、『般若心経』。
横田さんの新刊をもとに、語り合った。
打ち合わせもしないで、心のおもむくままに語り合うのは清々しい。
互いに信頼関係がないと出来ないことではある。
あればあるがまま、なければないまま。融通無碍なのだ。
「空の心」は、境目がないということ。
自分と他人とを分かつものはない。
生と死を分かつものはない。
ゆえに分からない方がいいと言われるとホッとする。
ボクが何か問うと、目を輝かせ、我が意を得たりとした顔をされる。
参加者の質問にも、真摯に丁寧に答えられる。
サインにも気さくに応じる。
終始、境目を作らない「空の人」であった。」
と素晴らしい文章で書いてくださっていました。
しかしながら「今日も泰然自若」とは、全く違いまして、初めてのゆく会場ですし、初めての方が多くて、たいへん緊張していました。
「飄々とした」というのも全く違いまして、「おどおどした」のが実際であります。
いろんなところでお話するのですが、やはりどこでも緊張します。
山荘は、素晴らしい住宅でありましたので、粗相をしないようにと気を遣います。
しかし、あたたかく迎えてくださってたすかりました。
『般若心経』をテーマに語り合ったのですが、村上さんが、
「打ち合わせもしないで、心のおもむくままに語り合うのは清々しい」と書いてくださっているように、なんの打ち合わせもしなかったのでした。
これはよく村上さんが「行き当たりバッチリ」と仰るので、そのままにお任せしたのでした。
それから村上さんが「互いに信頼関係がないと出来ないことではある」と書かれていますように、何度も村上さんとはお話していますので、だいじょうぶだという安心感があるからでもあります。
村上さんにお任せして自由に語るうちに、あっという間に時間がきてしまいました。
会場には、笑い文字普及協会の廣江まさみさんもお越しくださっていました。
笑い文字については以前この管長日記でも紹介したことがあります。
私の話を聞いている間に、笑い文字にしてくださっていました。
話が終わったあと、いただいたポストカードに書かれていた言葉を紹介します。
「何の区別も差別もないのが空」
「縁にまかせる」
「あればあるがまま ないがないがまま」
「生きることと死ぬことには 境目はあるんでしょうかね」
「トンネル ないです」
「カップラーメンくらいがちょうどいい」
「堂々と役に立たない」
「うつろいゆくものの中にこそ神がある」
「よろこびにはかたちがない」
という言葉でした。
「生きることと死ぬことには 境目はあるんでしょうかね」
というのは看護師の方から、生きるとは何か死ぬとは何か聞かれたときに答えた言葉でした。
私たちは、生と死を分けて考えていますが、境目はあるのでしょうかと申し上げたのでした。
医学的にはいろいろ決められて死亡時刻を定めていますが、たとえ亡くなっても、その人にとってはずっと生き続けていることもあるものでしょう。
紙の裏と表のように生と死も区別はないのではと話をしたのでした。
「トンネル ないです」はトンネルの喩えです。
般若心経の本にも書いている話です。
トンネルと描こうとすると、道路やトンネルの壁や山を描きますが、いざどれがトンネルかと問うてみると、実は、そうして描いた地面も、壁も、その背後にある山も、どれを取っても、それはトンネルではありません。
トンネルとは、空間です。
「トンネルを描け」といっても、私たちはトンネルの周りにあるものしか描くことができませんし、感じることもできません。
本来、トンネルは描けませんという話です。
自己というのもこれが自己というのはないという喩えなのです。
いろんなご縁や条件の集まりなのです。
「カップラーメンくらいがちょうどいい」は、般若心経が人気になった魅力のひとつにほどよい長さがあるということの喩えです。
あまり短かすぎないし、長過ぎないのです。
読むと三分くらいで読めるのです。
それがカップラーメンくらいの長さでちょうどいいのでしょうと言ったのでした。
「堂々と役に立たない」は、私が四十六歳で管長になるまでは、何の役にも立たずに坐禅だけしてきたという話でした。
しかも堂々と役に立たないことだけをしていたのです。
それが今日こうして些か人さまの前で話をしたり、本を書いたりとお役に立つようになりましたと申し上げたのでした。
「うつろいゆくものの中にこそ神がある」は熊野本宮の話をしたのでした。
熊野本宮大社は、小高い丘の上にございますが、もとは大斎原(おおゆのはら)という熊野川の中州にあったのです。
明治時代の水害のあと、今の場所に移されました。
太古からずっと、本来は川の中州に神社があったのです。
中州ですと大水が出ると流されますが、流されたらまた造っていたのでした。
そんなうつろいゆく中にこそ神がいらっしゃると話をしたのでした。
「よろこびにはかたちがない」は「空」の話です。
姿かたちがないからといって、何も無いわけではありません。
たとえば「よろこび」というのは形もありませんが、実際にこうして人から人へと垣根なしに伝わっていくのです。
それが空の心ですと伝えたのでした。
質疑応答も行って二時間があっという間でありました。
あたたかい春を感じるひとときでありました。
「空」は分かるものではありません。
なにかを感じてもらえたらじゅうぶんなのです。
横田南嶺