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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.03.20
今日の言葉

空を語る

「空を語る」、そんな思いをいだいた対談でありました。

花園大学の卒業式のために上洛することになり、その前日に禅文化研究所で、花園大学特別教授の佐々木閑先生と対談させてもらいました。

佐々木先生とは、昨年も花園大学で対談させてもらっています。

昨年佐々木先生は、花園大学特別教授の就任していただいたのでした。

その記念で対談をしたのでした。

今回は季刊誌『禅文化』273号において、般若心経に関する特集をするので、その巻頭の対談なのであります。

『禅文化』誌の対談に先だって、まずはじめに禅文化研究所のYouTubeの撮影をお願いしました。

禅文化研究所のことを少しでも多くの方に知ってもらおうと、昨年からYouTubeを始めました。

ほんの十分ほど、禅について、そして禅文化研究所について、お言葉を頂戴しようと思ってお願いしたのでした。

佐々木先生は丁寧に、そして奥深い話を20分にわたってしてくださいました。

禅文化研究所というのは、禅文化について研究しているのですが、この禅というのは、どういうものか、分かりにくいものです。

私はまだ小学生の頃から禅に触れて、禅の道をただ歩んできたのでした。

禅の世界の中で学んでいると、禅は、お釈迦様の悟りから端を発して代々祖師方を通じてその教えが継承されていると説かれています。

しかもその継承は、文字や経典によらないというのです。

そんな話をそのまま信じて禅を学んできましたが、大学に入って仏教学を学んでみると、禅というものが、仏教史の中でどんな位置にあるのかが分かってきました。

結論から申し上げると、中国において独自に発展した仏教のひとつの集団が実践していた教えであります。

佐々木先生は、はじめに何らかの集団があって、独自の集団生活をしながら、独自の道を実践していたのではないと仰っていました。

そこにインドから入ってきた般若の思想や、中国に昔からあった老荘思想などが相俟って、独自に発展した教えだと言えると思います。

教理的に考えると、それまで仏陀に到底なれない、もしなれるとしても三大阿僧祇劫というとてつもない長い歳月を要するというのが、仏教の教えだったのが、禅ではあなたの心がそのまま仏であると説き始めたのですから、とんでもない教えと受けとめられたのでした。

中国においての極めて特殊の教えを信奉する集団と言えましょう。

しかし、私はその禅の世界に今日までずっといまして、一見心が仏であると説きながらも、けっしてそのままでいいのだという欲望を肯定する教えとはならずに、厳しい修行形態を作り上げて、これまた独自の規律正しい集団生活を行うようになっていったのでした。

そしてその集団生活の中から、私がこれまでお目にかかった山田無文老師や盛永宗興老師というような類い希なる人格者も輩出しているので、やはり素晴らしい教えであり、集団であると思うようになったのでした。

私は禅というものをそのようにとらえているのですが、佐々木先生はどのようにご覧になりますかとたずねてみたのでした。

とても素晴らしいお答えを頂戴したのでした。

私も新たな視点を得ることができました。

またこれからの禅文化研究所のはたす役割についてはとても貴重なご意見をいただくことができました。

その内容については、近々禅文化研究所YouTubeで公開されますので、ご笑覧いただければと存じます。

そのあと、二時間ほど般若心経についてお話をうかがいました。

私の役目は季刊誌『禅文化』で般若心経を特集するにあたって、そもそも般若心経とはどんなお経なのか、仏教の歴史の中ではどんな位置づけなのか、そして般若心経は大乗仏教の経典ですが、それまでのお釈迦様が説かれた教えとはどんな違いがあるのか、そして般若心経は日本においてもよく唱えられ、写経され、あるいはお守りにもされているのですが、空の教えを説く般若心経がなぜ信仰の対象となっていったのか、などについて佐々木先生におうかがいしたのでした。

まず大乗仏教の大きな特徴として、それまでの仏教では私たちは仏陀には到底なれないとされていたのが、なれると説くようになったことです。

佐々木先生のご著書『般若心経』(NHK出版)で、

「ブッダというのは、とてつもなく素晴らしい智慧を持ち、その力で多くの生き物を苦しみから救ってくれる特別な偉人ですから、めったに現れないのです。したがって、一般の人々がブッダになることを目指して修行するなどということは普通あり得ません。」

とはっきり説かれています。

更に「日本では簡単に「仏になる」とか「成仏する」といった言葉を口にしますが、本来の「釈迦の仏教」ではあり得ないことです。

「釈迦の仏教」を信奉する人たちは、釈迦という一人のブッダが説いてくださった教えにしたがって出家修行を続け、それによって阿羅漢と呼ばれる、ブッダよりもずっとランクの低い聖者になることを目指すのです。

阿羅漢だって「悟りを開いた人」ですから素晴らしいのですが、ブッダほどの救済力はありません。ブッダは特別なのです。」

と説いてくださっています。

しかし、大乗仏教では、私たちも仏になれる方法があると説いたのです。

仏陀になるには、仏陀に出会って、誓いを立てることが必要となるのですが、佐々木先生は、「「般若経」を読んで「何か心に感じ入るところ」があれば、それはその人が、過去の世ですでにブッダに会い、誓いを立てたことがあるという証拠だ、というのです。」

と説いてくださっています。

般若心経ではまず五蘊という存在する五つの構成要素について説かれています。

この五蘊についても丁寧に解説していただきました。

五蘊や十二処十八界という世界観が説かれています。

しかし般若心経では「そういった区分はあくまで人の知恵による低次元の理解であり、「私とはなにか」という問いに対しては、「人智を超えた法則性によって現れ出ている、今ここにいるその存在そのものである」という言い方しかできなくなります。」

というのであります。

これも佐々木先生の『般若心経』にあるお言葉です。

禅ではこの「人智を超えた法則性によって現れ出ている、今ここにいるその存在そのもの」を仏と説くのです。

更に佐々木先生は、「「私」とは、「物質と精神」といった二元論はおろか、釈迦の仏教が考えた「要素集合体」という概念さえ跳び越えて、「感じとるしかない、規定不可能な一存在」ということになるのです。

『般若心経』の世界観を端的に言えば、「分析の否定」ということになるでしょう。

目の前にある存在を、「これはなにでできているのだろう」「これはどういった構造を持っているのだろう」といって区分けして解体し、その要素を知ることで、「これですべて理解できた」と納得する、そういう姿勢を否定しているのです。」

と明確に説いてくださっています。

禅でいうところの無分別の世界を説いているのです。

ですから『般若心経』というのはこういうお経だ、こういうことを説いているのだと分析して説明して、それを聞いて解釈してしまうと、もうすでにそれは違うものになっていると言えるのです。

そこが般若心経の難しい処なのですねと言って話を終えたのでした。

ともあれ、この分別の世界の中にあって、分別、分析を越えた空の世界を語るひとときなのでありました。

 
横田南嶺

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