有り難いご縁
飯田市で講演を勤めてきたのでした。
飯伊仏教大学講座という講演会でありました。
いつもお世話になっています松本市の神宮寺谷川和尚からのご紹介でありました。
谷川和尚は、この飯田市で生まれ育った方であります。
高校時代までは飯田市で過ごされたとうかがいました。
その後、神宮寺にお入りになったのであります。
もとは飯田市のお寺のお生れなのであります。
飯田市での講演は、その前後も日程が詰まっていたのでありますが、谷川和尚のご紹介となれば、是非ともと思ってお話させてもらったのでした。
有り難いご縁であります。
講演の前に時間がありましたので、元善光寺にお詣りすることができました。
どこでも講演にうかがうと、時間があれば、その土地の神社仏閣にお詣りするようにしています。
昨年の秋に長野市で講演した折には、長野の善光寺にお詣りすることができたのでした。
今回は、飯田市にどんなお寺があるのかと思って調べてみると、元善光寺というお寺があると分かりました。
元善光寺では、
一度詣れよ 元善光寺
善光寺だけでは片詣り
と言われているのでした。
元善光寺というのはどんなお寺なのか、お寺でいただいたパンフレットには次のように書かれています。
「元善光寺は、今から約千四百年前 推古天皇十年に、本多善光公によって開かれました。
御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋長者の願いによって此の世に出現せられ、欽明天皇の御代に百済国からわが国へ渡ってこられましたが、蘇我氏と物部氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。
本多善光公は信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人で、国司に従って都に上り、ある時 難波の堀江で一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って古里にお連れし浄めた臼の上に御尊像を安置し奉ったのが当山の起源です。
臼からは光明がさして光り輝き、「御座光の臼」と呼ばれて今も当山の霊宝となっております。
当地を座光寺と称するのもこの縁に因るものといわれております。」
と書かれていました。
座光寺という地名があったので、なにかお寺があるのかと思っていたのでしたが、こういういわれがあるのでした。
その後の話が更に続きます。
こちらもパンフレットから引用します。
「その後四十一年間を過ぎ、皇極天皇二年に仏勅によって一光三尊阿弥陀如来様の御尊像が芋井の里(現在の長野市)に遷される際に「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来りて衆生を化益せん」との御誓願を御本尊様が残され、この時に授かった霊木をもとにして善光公自ら一刀三礼にて御本尊様と同じ大きさの一光三尊仏の御尊像を彫られた上でこの地に留められ、寺は元善光寺とよばれるようになりました。
そもそも元善光寺の名は本多善光公の名に基づき、元善光寺の元は本元の意を表し、御詠歌の「月半ば毎に来まさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来より元善光寺と長野市善光寺の両方お詣りしなければ片詣りと云われております。」
と書かれているのです。
なるほど、そういうわけで元善光寺と呼ばれているのか分かりました。
一光三尊の阿弥陀如来像は善光寺式とも言います。
実は円覚寺にも、文永八年(1271年)の銘のある、銅造阿弥陀如来及両脇侍立像がございます。
これが善光寺式阿弥陀三尊像なのであり、国の重要文化財に指定されています。
円覚寺は弘安五年の開創ですので、円覚寺よりも古い仏像なのであります。
なぜそんな阿弥陀三尊像が円覚寺に伝わっているのか、よくわかっていません。
そんなこともあって、善光寺には関心があったのでした。
元善光寺には、『元善光寺さま』という本があったので、購入して読んでみました。
元善光寺についていろんなことが分かります。
その本の中に、こんなことが書かれていました。
「昔から、たくさんの俳句や歌によまれ、善光寺さま、善光寺さまと、日本中の人々から慕われお詣りされております信州善光寺さまのご本尊様は、日本で最古の仏様なのです。
その仏様が元は、信州飯田の地に本多善光公によって祀られておりまして、度々の仏様のお告げによって芋井の里(現在の長野市)に移されたものなのです。
その時長野には勅命により立派なお堂が建てられまして、善光公の名をとって「善光寺」というお寺が出来た訳です。
従って飯田の方は、ご本尊様が元あった所、そして本多善光公の誕生地である事から元善光寺と呼ばれるようになりました。
それ以来、善光寺と元善光寺は両方にお詣しないと片詣りになってしまうと云い伝えられてまいりました。」
ということです。
更に「善光寺如来さまの、あまりのご利益にあやかりたいという人が日本中にあふれまして、各地に善光寺と呼ばれる寺が段々と建てられて行きました。
今や善光寺と称する寺は日本全国に二百近くもあると云われておりますが、中でも甲府の善光寺は、武田信玄公が、 川中島合戦の折、信州善光寺の焼失を恐れ、ご本尊様始め諸仏寺宝類をうつして建てられたもので、善光寺の中では最も大きな寺の一つです。」
とも書かれています。
善光寺という名の寺があちこちにあることは存じ上げていましたが、二百近くもあるとは驚きました。
飯田市での講演は、前半は私の今日までの歩みを話しました。
後半は、先月インド仏跡巡拝をしてきたことについて、画像を使ってお釈迦様のお話をさせてもらいました。
飯田市は、江戸時代に白隠禅師が七十三歳の頃に訪れたこともある処であります。
おかげさまで、講演に招かれて元善光寺にもお詣りできました。
講演には、松本からお忙しいのに谷川和尚もお越しくださり、有り難いご縁に感謝しました。
横田南嶺