仏様に近づくよい習慣
これで三度目であります。
今回もはじめて参加するという方がけっこういらっしゃったので、そもそも「布薩」とは何かということから話を始めました。
「布薩」はプラークリット語のウポーシャダに相当する音写で、もともとの意味は「火もしくは神に近住する意」であります。
婆羅門教の新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を仏教に取り入れたものです。
半月に一度、定められた地域(結界)にいる比丘達が集まって、波羅提木叉を誦して自省する集会のことであります。
波羅提木叉というのは、比丘比丘尼の持する戒条を列記したものをいいます。
岩波書店『仏教辞典』には「のち、月に6回、六斎日(ろくさいにち)に在家信者が寺院に集まって八斎戒を守り、説法を聞き、僧を供養する法会が盛んになり、これも<布薩>と称するようになった。」
と書かれています。
そもそも戒律とは何かというと、『仏教辞典』には、
「漢語としての〈戒〉はいましめの意。
〈律〉はおきて、さだめの意」と書かれています。
「戒」はシーラ、「律」はビナヤです。
「シーラとは修行規則を守ろうとする自律的な決心で修行を推進する自発的な精神であり、ヴィナヤは教団 (僧伽) の規則の意であると区別される。」
と解説されています。
更に「在家信者は, 仏教を修行しようと決心するとき。仏・法・僧の三宝に帰依し、比丘に従って五戒を受ける。
さらに毎月6回ある布薩日には八斎戒を受ける。
信者は僧伽を作らないから律を守ることはない」と書かれています。
では五戒とは何かというと、こちらも『仏教辞典』によれば、
「在俗信者の保つべき五つの戒(習慣)。
不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒の5項からなる
原始仏教時代にすでに成立しており、他の宗教とも共通した普遍性をもつ。」
というものです。
更に「八斎戒」というのは、
「斎は、つつしむ意で布薩(ふさつ)の訳であるが、ここでは食事の意」。
「六斎日(ろくさいにち)に守る戒のことで、戒の数え方の違いにより8戒とする場合もあれば9戒とする場合もある。
布薩の日に寺に出かけて、一昼夜守る在家(ざいけ)の戒。
在家の五戒に衣食住の具体的な節制、すなわち装身具をつけず歌舞を見ないこと(これらを二つとする経典では9戒)、
高くて広いベッドに寝ないこと、昼をすぎて食事をしないこと、を加えて8条ないし9条としたもので、出家生活に近い内容を持つ。
原始仏教以来、僧俗を結ぶ有力な方法として重視され、大乗仏教でもこれを取り入れた。」
では斎日とはいつのことかというと、
「斎日」とは「物忌みをして身心の清らかさを保つ日。
仏教では毎月の8・14・15・23・29・30日を<六斎日>と呼び、この日には天の神々が人間の行いを監視しているので、在家の人たちも戒を守って行いを慎まなければならないとされる」
というのであります。
そこで、今年から円覚寺でも毎月一回ですが、布薩の会を始めたのでありました。
今月の二十日に、ティク・ナット・ハン師のプラムヴィレッジの方々との企画が円覚寺で行われる予定で、その会でお世話になる島田啓介さんも参加してくださいました。
島田さんは、ティク・ナット・ハン師の著作をたくさん翻訳されている方であります。
そんなこともあって、今回は、五戒について、プラムヴィレッジの五つのマインドフルネストレーニングを紹介しました。
これは五戒がもとになっています。
不殺生については「いのちを敬う」として、
「いのちを破壊することから生まれる苦しみに気づき、相互存在を洞察する眼と慈悲とを養い、人間、動物、植物、鉱物のいのちを守る方法を学ぶことを誓います。私は、けっして殺さず、殺させず、自分の心と生き方において世界のいかなる殺害行為も支持しません。」
というものです。
不偸盗は「真の幸福」で、
「搾取、社会的不正義、略奪、抑圧による苦しみに気づき、自分の心、発言、行動をもって寛容さを実行することを誓います。
私はけっして盗まず、他に属するものを所有せず、私の時間、エネルギー、持ちものを、必要とする人とわかち合います。
深く見つめる実践によって、他の幸福と苦しみは私の幸福と苦しみとひとつであること、慈悲と理解なしに真の幸福はありえないこと、富や名声や権力や享楽の追及は大きな苦しみと絶望をもたらしかねないことを理解します。」
というものです。
不邪淫は「真の愛」、
「性的な過ちによる苦しみに気づき、責任感を育て、個人、カップル、家族、社会の安全と誠実さを守る方法を学ぶことを誓います。
性欲は愛ではなく、貪りによる性行為は、つねに自分と相手を傷つけることを知ります。
真の愛と家族や友人から認められた深く長期的なかかわりなしには、けっして性的な関係を結びません。
力を尽くして子供たちを性的虐待から守り、性的な過ちからカップルや家族が崩壊しないように防ぎます。」
というものです。
不妄語は「愛をこめて話し、深く聴く」で、
「気づきのない話し方と、人の話を聴けないことが生む苦しみに気づき、愛をこめて話し、慈悲をもって聴く力を育てます。
自分をはじめとして、人びとや民族や宗教集団や国家間に存在する苦しみを見抜き、和解と平和をうながすことを誓います。
言葉が幸せも苦しみもつくりだすことを自覚し、信頼、喜び、希望を与える言葉を使って、誠実に話すことを誓います。
心に怒りが生じているときはけっして話しません。」
というものです。
最後の不飲酒は「心と体の健康と癒し」で、
「気づきのない消費によって生じる苦しみに気づき、マインドフルに食べ、飲み、消費することを通して、自分と家族と社会に心身両面の健やかさを育てていくことを誓います。
食べもの、感じ方、思い、意識という四種の栄養の消費のしかたを深く見つめる実践をします。
私は賭けごとをせず、アルコール飲料、麻薬の他、特定のウエブサイトから、ゲーム類、テレビ番組、映画、雑誌、書籍、会話に至るまで、毒性のあるものはけっして摂取しません。」
というもので、プラムヴィレッジのホームページから、その一部を引用させてもらいました。
終わった後の質問で、これらのマインドフルネストレーニングでは、カタカナの言葉が少ないのに『マインドフルに食べ、飲み、消費する』という箇所には、なぜ「マインドフルネス」という言葉が使われているかということ、そしてその内容について問われました。
その質問された方の隣に島田さんが坐っておられたので、私は、それはこちらの方に聞いた方がよろしいかと思いますといって、島田さんに答えてもらいました。
なんとこの五つのマインドフルネストレーニングは島田さんが日本語に訳されたそうなのです。
お答えいただいた次いでに、島田さんに今回の布薩の感想を伺いました。
今まで日本のお寺に行くと、意味の分からないお経をただじっと正坐して我慢して聞くという印象だったらしいのですが、今回はよく分かる言葉で、しかも礼拝という体を動かしながら、行うことで、身も心もとても調うことができたと仰ってくださいました。
円覚寺の布薩の会では、一般の方向けに、二十七回五体投地の礼拝を行いながら、三帰依、三聚浄戒、十善戒を読み上げています。
実に自然と体も心も調って、なにか仏様に近づいてゆくような気持ちになるので、有り難いものなのです。
横田南嶺