ほとけの慈悲
午後から鎌倉では雪の下のカトリック教会で、神道、仏教、キリスト教合同の法要を営みます。
祈りの日であります。
三月の湯島の麟祥院での勉強会では、竹村牧男先生の『華厳五教章』の講義を受け、更に小川隆先生の『宗門武庫』についての講義を拝聴しました。
小川先生のご講義では、前回に続いて『宗門武庫』の仏照禅師の話に関連して丹霞天然禅師についてでありました。
丹霞禅師が仏像を燃したという話であります。
私自身は、あまりこの話が好きではなかったのですが、今回学び直して色々と気がつくことがありました。
まずはじめに小川先生は、この丹霞禅師が仏像を燃したという話は、広く世間にも知られていた事実として、岡倉天心の『茶の本』からの引用を紹介してくださいました。
「禅の宗徒は、事物の外的付属物をもっぱら真理の明晰な認識を妨げるものと見做し、事物の内在的本性と直接に交渉しようとこころざした。
……禅宗徒の中には偶像破壊主義者になるものさえあったが、それは像と象徴によるよりはむしろ彼らの内なる仏陀を認識しようと努めた結果であった。
丹霞和尚は或る冬の寒い日に、木の仏像をうち壊して焚火(たきび)にしたという。
「何というもったいないことを!」 とかたわらにみていた人が怖れに打たれて言った。
「私は灰の中から舍利を拾うのだ」と、和尚は静かに答えた。
「しかしこの仏像からあなたは舍利を拾えませんよ!」と怒って言い返すと、丹霞は答えた。
「もし舍利が拾えなければ、これは仏陀でないことは確かだ、だから私は何ももったいないことをしていないのだ。」
そしてくるりと背を向けると、焚火にあたった。」(桶谷秀昭訳、講談社学術文庫、一九九四年)というところです。
偶像破壊というのは、『広辞苑』にも、
「①ユダヤ教・キリスト教・イスラム教において、偶像崇拝の風習を排撃すること。 →イコノクラスム。
②一般に、偶像的なもの、例えば伝統的な権威などを批判し排斥すること。」
と解説されています。
ただ岡倉天心が、禅宗の者が「像と象徴によるよりはむしろ彼らの内なる仏陀を認識しようと努めた」というのは厳密にいうと正しくはなく、臨済禅師も『外に向かって法無く、内も亦不可得」と言っているように内なるものをも否定しているのであります。
このことを小川先生は指摘して下さっていました。
今回は、丹霞禅師が仏像を焼いたということを学びましたので、その最も古い記録である『祖堂集』を引用されました。
小川先生の訳には
「その後、恵林寺で寒い日があり、丹霞が木の仏像を焚いて寒さをしのいでいたら、同寺の住僧のひとりが非難した。
丹霞は答えて言う、「なに、荼毘にふして、仏舎利をいただこうと思いましてな」。
僧、「木に何が有るか!」
丹霞、「もしそうなら、何も責められるいわれはござらぬではないか」。
僧が前に進み出ようとしたとたん、眉毛がいっぺんに抜け落ちてしまった。」
と『中国禅宗史』(ちくま学芸文庫)に書かれています。
「「眉毛堕落」という記述は、偽りの法を説く者は法罰によって眉毛が抜け落ちるという信仰に基づいている」と解説があります。
以前この問題について書いた折(管長日記2月21日こだわらない、とらわれないー舎利供養をめぐってー)にも、小川先生の「偶像破壊にこだわることが実は偶像を実体視していることの裏返しの表われにほかならぬことを淡々と説いているのである」という言葉を紹介しましたが、わざわざ偶像を破壊しようというのもどうも作為的な気がしていたのでした。
しかし、いろいろと学んでみると、その当時、北宋期の「京師」の寒さというのは、「苦寒」と表現されているように、じつに厳寒であり、酷寒だというのです。
どれくらいの寒さかというと、「京師、大いに雪ふり、苦寒たり。人、凍死するもの多く、路に僵尸〔カチカチになった死体〕有り」というように、人が凍死して、その死体がカチカチになってしまうほどのものだったというのであります。
こういうことを学ぶと、私たちが今少しばかり寒いと思ってたき火をするのとは訳が違うのです。
命に関わることなのです。
そう思うと、私は道元禅師の『正法眼蔵随聞記』にある栄西禅師の話を思いおこしました。
講談社学術文庫『正法眼蔵随聞記』にある山崎正一先生の現代語訳を参照します。
「今は亡き僧正、栄西禅師が、まだ御存命で建仁寺にいられたときの話だが、ある貧しい人が禅師のところへ来て、いうようは、「私の家は貧乏で、食物がなくて、かまどの火も、数日来、焚くことがなく、絶えてしまいました。夫婦と息子二、三人ともども餓死寸前であります。何とぞ、お慈悲をもって、お救い下さい」と。
そのとき、寺の中には、衣類も食物もなく、ねうちのありそうな品物もなかった。あれこれ思いめぐらしてみたが、どうにも手だてがない。
そのときふと思い出したのは、薬師如来の像を造るつもりで、その像の光背をつくる材料として大切にとっておいた銅ののべがねが少しあったことである。
そこで、これを取り出し、僧正みずから、これを手で打ちまげ、束にまるめて、かの貧しい人に与え、「これを売って食物にかえ、餓えをふさぐがよい」といわれた。
その貧しい人は、有りがたく頂戴し、よろこんで帰っていった。
門弟たちは、なげいていった、「あの銅ののべがねは、仏像の光背をつくるための大切なものです。
それを、あの俗人にお与えになってしまった。仏に捧げられたものを、自分勝手に用立てたという罪にはなりませんか」と。
僧正、答えていわれるには、「まことに、そのとおりである。
しかし、仏のみこころを考えてみるに、仏は、求められれば、そのからだも、手も足もきって、衆生に施されるにちがいないのである。
目の前で餓死しようとする衆生には、たとえ、おからだの全部を与えても、み仏のみこころに、かなうであろう。」
という話であります。
凍死してしまうかもしれないという時に、仏さまがわが身を燃やしても、人を温めて救おうというのは、まさに仏様のお慈悲そのものだと思うこともできます。
また道元禅師は、同じ『正法眼蔵随聞記』の中で、
「丹霞天然禅師は、木造の仏を焚いたという。これこそ、わざと悪事をしたことと見えるけれども、これも一つの説法のための手だてなのである。
この禅師の行状記をみると、禅師の立ち居振る舞い、必ず礼にかなっていたのであって、常に尊貴な賓客に対するごとくであった。
暫時、坐る間にも、正しく趺坐し、立位には叉手した。 寺の恒常財産を守ること、目の瞳のごとく、大切に守った。
修行につとめはげむ者があれば、必ずこれを覚めてはげみを与え、少々でも善いことをした者があれば、これを重んじた。
このように、禅師の常日ごろの行状は、すぐれて立派であった。」
とも書かれています。
それほどの禅師なのですから、わが身をあたためて、そして多くの人に法を説いて伝えて衆生済度の為にはたらいて行こうという慈悲の行だと読むことはできないかと思ったりしていました。
横田南嶺