明徳を明らかにする
岩波文庫の『大学・中庸』金谷治訳注のはしがきには、
「『大学』と『中庸』とは、『論語』と『孟子』に合わせて「四書」とされ、儒教の代表的な経典としてひろく読まれてきた。
『大学』は孔子の門人の曾子の作、『中庸』は曾子の門人の子思の作、そして子思の門人に学んだのが孟子であったとして、「四書」を学ぶことによって儒教の正統的な血脈がそのままに体得できると説明された。
宋の新儒学としての朱子学からあとのことである。
『大学』と『中庸』は、朱子の顕彰によってこそ有名になったのである。」
と書かれています。
そんな『大学』と深い縁のあるのが盤珪禅師であります。
釈宗演老師の『禅海一瀾講話』には、次のように書かれています。
「尤も 『大学』に付いて広く見たら色々の事がありますが、我が禅宗、就中臨済に於ては、網干の龍門寺の開山になって居る盤珪禅師という方が、この『大学』についてこういう経歴を持って居る。
師が十有五にして学に志すという時分に、この章に出遇うて、大いに疑いを起した。
明徳を明らかにするの章を疑って禅に参すると伝に書いてある。
固より明らかなものならば、更に明らかにすることは入りそうもないものだということが、疑いの種であった。」
というのであります。
実際には盤珪禅師十二歳の頃のことであります。
更に宗演老師は、
「これより東西に徘徊して多くの善智識に遇ったが、何の得る所もなかったが、常に屈せず、撓まず、刻苦精錬して、時間の経過を忘れる位までに鍛錬した。
常に静坐して工夫して居ったので、臀部の肉が爛れて仕舞うて、遂に膿血を出すに至るという位に、余程猛烈にやった。
膿血の出る所へ紙を貼り付けて、更に撓まず坐って居る。
十有五歳位からこの疑いを起して、そうして三十位までやったその後、重病を憂い、飲食進まず、日を算えて死を待つというところまで至った。
なんでも人間という者はこういう逆境、こういう煩悶に出遇わぬと、一条の血路を開くことが出来ぬ。
それは当人の心の取り様で、禍を転じて幸と為す事も出来ようが、ただ楽々として居ったのでは中々悟りを得られるものではないが、今、禅師もそういう逆境に陥った所で、一日豁然として悟った。
既に明徳という、何をか明らかにするという、この疑問を二十年来持って居ったのであるが、ここに至って大いに省みる所があった。」
と書かれています。
これは、盤珪禅師が二十六歳の事であります。
では、この明徳とはどのようなものかというと、宗演老師は、
「明徳というものはどんなものかと言えば、我が本心の変名と言うても宜い。或いは上帝と言い天命と言い、或いは仁と言い、義と言い、名が色々に分れて居るが、要するにその心は名もない、名づけ様もない。
目で見ることも、耳で聞くことも出来ぬが、しかし「上天の載は声もなく臭もなし」〔『中庸』]と言うては、捉まえ所がないから、ここに表示して、「明徳」と言う。
この徳というものは天から降ったのでも、地から湧いたのでもない。
神様が造ったのでも、仏様が造ったのでもない。
我々が先天的に持って居るものを、暫く明徳という。」
と説かれています。
この先天的に持っているところ、盤珪禅師は「不生」と表現されたのでした。
明徳について疑い、明徳とは何を求めて修行した盤珪禅師ですが、明徳を明らかにしたあとは、もっぱら「不生の仏心」を説いて、明徳については述べることはありませんでした。
『盤珪禅師語録』にもただ一カ所「明徳」という言葉がでてくるのみであります。
それは、
「只気癖の客塵によって、至極大切なる仏心を、地獄等の悪縁にしかえる也。貴き人間に生れ、善悪是非を弁別する、明徳をわけもなき物にしかえる事、浅猿く悲き事にあらずや。(九七頁)」
というところです。
明徳を地獄や餓鬼の心に変えてしまっているというのです。
そこのところを宗演老師は、
「しかしその持って居る明徳であるけれども、如何せん 「人欲の私」、仏法で言えば煩悩の為に、この明徳を曇らせて居る。
だから、先ず「大学」即ち大人の道を学ぶ者の要義は、何処にあるかと言えば、「明徳を明らかにする」に在る。」
と説かれているのであります。
更に宗演老師のお説きになっているところを拝読してゆきましょう。
「明徳を明らかにし終ったならば、次に「民を新たにする」。
この「新」という字は「親」という字が書いてあるのもある。
程伊川は「新」という字を用いて居る。
程明道の方は「親」という字を用いて居る。
そんな字義上には、やかましいことを沢山並べて居りますが、余りそういうことに重きを置かんでも矢張り「新」という字で宜しい。
詰り「民を新たにするに在り」。
自分が明徳を明らかにしたならば、一般の人をして明徳を明らかにせしめよという意味をば、言葉を換えて「民を新たにするに在り」と申したので、要するに明徳を明らかにするは自利的、民を新たにするは利他的である。
利他は自利の起りで、自利は利他の起りである。
これに就いては古今東西、議論があるが、畢竟一つである。」
というのであります。
盤珪禅師もまた明徳を明らかにしてそのあとは、ひたすら人々に明徳を不生の仏心という言葉で説き続けられたのでした。
それから「これから一歩を進めて何処に帰着するかと言えば、「至善に止まる」。今の言葉で言えば、絶対的善である。
今、倫理学上の事を聞いても、道徳上の事を聞いても、説は色々と分れ居ても、大体の帰趣が、絶対善であるということは、動かない。
そういう所は我が仏教も同じである。
仏陀ということの意義は、「自覚覚他・覚行円満」というのであるが、その義理を此処に比べて見ても同じ意味で、「明徳」が即ち自利であります。
「新民」が利他であります。
覚行円満というその悟りと行いと心が円満に至った所が「至善」である。」と説かれています。
盤珪禅師のご生涯は、この通り、明徳を明らかにして、それを多くの人に説いてみちびて、悟りと行いとが完全になられたものだと言えます。
三月五日、そんな盤珪禅師のお話を龍雲寺様でさせてもらったのでした。
横田南嶺