存在することは、感謝すること
岩波文庫の『南無阿弥陀仏』の巻末に載っています。
どれも深い含蓄のある言葉が連ねられています。
一番はじめに、
「今日モアリ
オホケナクモ」
という短い言葉があります。
その後に、柳先生の解説があります。
引用しますと、
「仏法に「諸法無我」という教えがあるが、仏教の示す最も根本的な真理の一つを語るものである。
「よろずのものは我独りではない」という意味である。
「諸法」は万物で、「無我」はこれという単独なもののない事を意味する。
こうして生きているのは、数えもきれぬ、もろもろの因縁が組合わさっているのであって、決して自己一人の力に依るのではない。
何もかも依存しあっているので、「自性」と呼び得るものは何一つない。
今日、こうして存在しているのも、多くのものの力に支えられているお蔭である。
仏法で「衆生の恩」が説かれる所以である。
活きることは、やがて無量の恩に浴みることである。
これを想えば、一生は謝恩の連続であろう。
「オホケナクモ」は、「忝ジケナクモ」とか、「勿体ナクモ」とかいう意味である。
ここで存在することは、感謝することになろう。
これが分れば、逆境もまた光明への道に他なるまい。」
と書かれています。
「オホケナクモ」とは今あまり使われることが少ないので、分かりにくい表現であります。
「おおけなし」を『広辞苑』で調べても、
「(「おおけ」は分不相応に大きい意、「なし」は甚だしいの意か)
①身のほどをわきまえない。
②大胆である。」
と書かれていて、なかなか分かりづらいものです。
「「オホケナクモ」は、「忝ジケナクモ」とか、「勿体ナクモ」とかいう意味である」と書いているので、「かたじけない」を『広辞苑』で調べると、
「かたじけなし(元来は、容貌の醜い意を表す語であったらしい)
①恥ずかしい。面目ない。
②(過分の恩恵や好意を受けて)身にしみてありがたい。
③(尊貴さがそこなわれるようで)もったいない。恐れ多い。」
という意味が書かれています。
「もったいない」を調べると、
もともと「もったいなし」は(物の本体を失する意)で、
「①神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである。
②過分のことで畏れ多い。かたじけない。ありがたい。
③そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。」
という意味がございます。
更に柳先生は、
「ある人は、自らの存在を呪うであろうが、有為転変の習わし、そんなものは一つとして固定してはおらぬ。
そう分れば、何所に執着する苦があり、楽があろう。
こうして活きているその事が、勿体ないことなのである。
だから今日活きることは、報恩の行として活かすべきである。
かくして活きる事の意味を教わる。
私はこの句を、この小偈集の序として第一にかかげた。
このたび重病をしたので、なおさらこの真理を味わせて貰った。」
と書かれています。
「今日活きることは、報恩の行として活かすべきである」とは肝に銘ずべき言葉です。
永六輔さんの
生きているということは
誰かに借りをつくること
生きていくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
という言葉を思いおこします。
次には、
「御仏イヅチ
汝レハ イヅコ」という言葉が出ています。
そこには、
「次のように思い浮べて下さるとよい。ある人が僧に「仏様は何処にいられるのでしょうか」と尋ねた。
するとその僧は即座に「お前はどこにいるのか」と反問した。
誰でも仏といえば、すぐそれが誰で、何処にいるのかと心に尋ねる。
その居場所は、繰返る千古の問いだともいえる。
だが、かく問うとは何のことか、かく問う私の居場所は一体どこなのか、まずこれを省みずして、仏の居場所など、どれだけの意味が残ろう。
まして仏の居場所が何処か他にあるとすると、私を去ること遠いであろう。
はたと気づけば、自分の居場所以外に、仏の居場所など、あろうはずはあるまい。
私の居場所をつきとめる時と、仏の居場所を見出す時とは、同時であって別時ではあるまい。
私を離れた仏など、もともと二次的なものに過ぎまい。
同じように、仏を離れた私など、意味の浅い私に過ぎまい。
衆生のいる所に、仏があり、仏のいる所に衆生が在ろう。
だから仏の居場所を知ろうとする者は、何より自らの居場所を見つめるべきである。
仏を遠い世界に探る如きは、仏法の領解とはいえぬ。」
と書かれています。
三番目には
「都イヅチ
問ヒノサ中」とあります。
これは一層禅的であります。
柳先生は、
「心が追い求める都は、何処に在るのだろう。
都は遥けき彼方にあるとも思えるのである。
だが、ほんとうにその都にあこがれる心とは、そもそも何であろうか。
考えると、この問いを持たなくば、都は無いに等しいではないか。
求める都は、その問いを離れた遠い彼岸にあるのではあるまい。
実に、その問いの真中にこそ、その都があるのである。
問わない者に、この秘義は通ぜぬ。
「仏よ」というその声に、仏が在るのである。
否、「仏よ」というその声が、既に私の声ではあるまい。
ここでは問うことと、答えられることとは、二であって、二ではあるまい。
人々が「仏よ」というその声は「仏はここに在る」という仏のその声なのである。
有名な傅大士の偈に「欲識仏去処 祗這語声是」とある。」
と書かれているのです。
仏とはと問い求める、その心こそが仏であると示すのが禅の教えなのです。
仏様に手を合わせる、そこにこそ仏様がいらっしゃるのです。
横田南嶺