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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.03.03
今日の言葉

般若心経を行じる

一月の下旬に春秋社から出版した『はじめての人におくる般若心経』が、早くも増刷されることになりました。

短い期間で、増刷になるとは嬉しいことです。

出版社のご苦労というのを思うと、増刷にならないと申し訳ない気持ちがするもので、ホッとしています。

やはり般若心経という経典が、人気があるのだと改めて思います。

一昨年花園大学で講義したものを出版社がまとめてくれたのですが、講義をするにあたって、私ももう一度般若心経を学び直しました。

そのときに参考にした本は実にたくさんありますが、一番はやはり禅文化研究所から出ている山田無文老師の『般若心経』であります。

この本については、禅文化研究所のYouTubeでも紹介する予定であります。

それから竹村牧男先生の『般若心経を読み解く』(角川ソフィア文庫)であります。

ほかにもダライ・ラマ猊下の本や、ティック・ナット・ハン師の本なども大いに参考にしました。

般若心経ではまず五蘊皆空ということが説かれています。

まずお互い自分があると思い込んでいますが、それは五つの要素の集合体であると知ることが大切なのであります。

ダライ・ラマ猊下は「われわれ、自分自身の存在も、世界も宇宙も一切がこの五蘊の各要素から出来ている。

大切な事は、五蘊の他には全宇宙に何もないということである。」

と『ダライ・ラマ般若心経を語る』(角川ソフィア文庫)で仰せになっている通りであります。

五蘊をしっかり理解することが土台となります。

そこで、山田無文老師の『般若心経』にある五蘊の解説を参照してみましょう。

「五蘊。

蘊というのは「集まり」という意味で、お互いの肉体と精神は、後のところにも出てくるように、色、 受想行識の五つが集まってできておるのであります。

第一の色は、物であり、われわれの肉体のことであります。

お互いの体というものは四大といって、地水火風の四つの元素が集まってできているのだ、というのが仏教の見方であります。

まず骨とか髪の毛とか歯というような固いものは地の成分であります。

血液や胃液などの体液は水の成分。

また、生きている間は体が温かいが、これは火の成分であります。

そして、心臓が動いたり、手足が動いたりするのは風の成分によるのだといいます。

このように四大が集まってこの身体を構成しておるので、肉体のことを色ともいうのであります。

しかし、この四大によって成立しているお互いの肉体も、現実にあるように見えてはおるが、その内容は刻々と一時も休みなく変化しておるのだから、あくまでも仮の姿。

集まるべき因縁がなければ、もとの四大に分散しているだけだ。

この肉体は、あるがままに空である、と見ていくのが般若の智慧であります。

第二の蘊である受は、客観世界を受け入れるという意味で、感覚の集まりのことです。

われわれは目でものを見、耳で声を聞き、鼻で香を嗅ぎ、舌でものを味わい、体で触れていく。

そういう感覚があって、初めて人間というものが成立するのであります。

しかし、その感覚も、それがはたらいている刹那だけで、済んでしまえば何もない。

いっさいの感覚も、あるがままに空である。

第三の想は、判断の集まり。

感覚を受ければ、おのずからそこに判断が出てくる。

花は紅、柳は緑と判断をし、ワンと鳴けば犬、ニャンと鳴けば猫と、いちいち判断をしていくのであるが、これもその刹那だけのはたらきであって、済んでしまえば何もあとに残るものはない。

そのまま空である。

第四の行は、判断が行為に移ること、意欲というはたらきであります。

あれが見たい、これが欲しい、うまいものが食べたいと、まことに人間は欲の集まりでありますが、この欲も満たされてしまえば、あとは何もなくなってしまう。

あるように見えてはおるが、実在するものではない、そのまま空である。

第五の識は、阿頼耶識、翻訳して含蔵識。お互いが生まれてから得た経験と知識のすべてを蓄えておる蔵であります。

いわば記憶の集まりで、無限の過去からの複雑な記憶の集まりが、いわゆる自我といわれるものであり、われわれの行動と存在を決定していく主体性というものであります。

凡夫はこの自我を実在のように思うて、もっぱらそれに執着しているのですが、そもそもそれが罪の始まりであり、迷いの始まりであります。

このように第一の色は肉体で、あとの受想行識は精神ですが、このわれわれの肉体も精神も、実在するものではなく、その五蘊はあるがままに空である、と教えるのが仏教の人間観であります。」

と解説してくださっています。

具体的で分かりやすい解説であります。

それから般若心経では、五蘊のひとつひとつが空であると説いていくのであります。

「色は空に異ならず、空は色に事ならず、色即是空、空即是色」というところをどのように無文老師が説かれているか参照してみましょう。

「皆さんが坐禅をしてしばらく坐っておられると身体は空になる。

坐禅をせんでも皆さんそうやって話を聞いていらっしゃる時には、身体はあってもないと同じことでありましょう。空である。

背中のあることも、心臓や肺のあることも、胃や腸のあることも意識しない。

身体のあることを意識せずに、そこに聞いておってくださる。

身体は空に異ならずだ。

この暑いのに野球を見て、気違いのようになって応援している人たちは、熱狂してしまって自分の身体は忘れておる。

身体は空に異ならずだ。

夢中になって野球をやっておる選手たちも自分の身体は忘れておる。

こう体験的に考えていただく方が理屈抜きにしてよくわかると思います。

心臓や肺は、あってもないに同じことだ。

意識に上らん。心臓や肺のあることをいつも意識しておいでになる方は、これは病人である。

心臓や肺の悪い人だ。

胃のあることを意識して坐っておられる方は胃の悪い方だ。

それでなかったらお腹のすいた方だ。

みな、胃のあることも心臓のあることも、肺のあることも、身体のあることも忘れて、毎日日暮らしができるのであるから、身体は空に異ならずだ。」

と実践的に説いてくださっています。

こういうところも禅の教えでは大事なところであります。

分かりやすい口調でありますが、実に奥深いところであります。

このように思弁的に理論的に空とは何かと考えるよりも、実践の上で体得していくことが大切であります。

やはり『般若心経』は、観自在菩薩が深い般若波羅蜜多と行じて説かれた教えなのであります。

我も忘れて一心に読経したり、写経したりして行じるのが一番なのであります。

 
横田南嶺

般若心経を行じる

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