お釈迦様をしのぶ
『広辞苑』には、
「自分の欠点には気がつかないで、他人の欠点をあざ笑うことのたとえ。また、あざ笑う者も、笑われる者も大した違いはないというたとえ。」
と解説されています。
鼻くそというと、朝比奈宗源老師の『覚悟はよいか』に、お釈迦様の鼻くそについて書かれているところがあります。
朝比奈老師は、四歳で母を亡くし、七歳で父を亡くされました。
亡くなった両親がどこに行ったのかというのが少年時代の老師にとっての大問題でありました。
そんな頃にお寺の涅槃図をご覧になったのでした。
その時の様子は、『覚悟はよいか』から引用させてもらいましょう。
「八つの歳だなあ。 二月十五日の涅槃会にお寺に行った。
お釈迦さまのおかくれになった日だ。
その時分のお寺は、それがサービスだったろうけれど、アラレ(餅を賽の目に切ったもの)を炒って黒砂糖をまぶしたようなものを作っといて、子供が行くとくれるんだよ。
なに? 関西では「お釈迦さんの鼻糞」というんだって?
そりゃあ面白い。
とにかく、その鼻糞にひかれて寺参りさ。友達と行って、それをもらって拝んだ。涅槃図をな。」
と書かれています。
関西でいう「鼻糞」というのはどういうものか長い間気にかかっていました。
私の田舎にはありませんでした。
関東にもなじみがありません。
昨年の二月に神戸に行った折に須磨寺にもお参りしてきて、その時にちょうど涅槃会の二日後だったので、小池陽人さんから須磨寺で作った「花供曽」を頂戴しました。
とてもきれいでおいしいひなあられのようなものでした。
お寺のみなさんで心を込めて作られているのでした。
なんと有り難いことに、今年も小池陽人さんから、須磨寺の花供曽を送っていただいたのでした。
修行僧達と共に感謝して頂戴しました。
お寺の方々が皆でお釈迦様のお徳をしのびながら、こうして毎年お作りになっているのは素晴らしいことであります。
この花供曽をいただいていると、お釈迦様がより一層身近に感じられるのであります。
朝比奈老師の著書『仏心』には、こんな話が書かれています。
春秋社から復刻された本から引用します。
「お釈迦さまは立派なお悟りをされた方であります。
つまり仏心をよくお明らめになった方でありますが、そのお言葉のうちに、「有余涅槃」 「無余涅槃」ということがあります。
涅槃とは悟りということです。
有余涅槃とは、立派に仏心を明らめて、自分の生活がすべて仏心のあらわれであると悟っても、この肉体のある間は、やはり肉体にもとづくわずらいがある。
いくらできた人でも腹がへればひもじいし、暑い時は暑く、寒い時は寒い。」
「無余涅槃とは、悟りのできた人が肉体もなくなった時のことです。
お釈迦さまがおなくなりになったことを涅槃に入られたといいますのは、この無余涅槃にあたります。
もうサバサバとして少しのわずらいも不安もない、完全に仏心一つの世界であります。
これはお釈迦さまのようにすっかりおできになった方のことですが、この道理はまだできていない私どもにもあてはまります。
お互いはちゃんと仏心をそなえていて、その仏心は前にもいいましたように、死ぬこともなく、けがすこともできず、きずつけることもできない、完全無欠な尊いものです。
たとい悟らないでも、この仏心の尊いことを信じますと、悟ったと同じように安心もでき、死後についても不安はないのであります。
生きているうちは執着や迷いもありますが、死によってそれらはきれいにたちきられ、立派に涅槃に入ることができるのであります。」
と書かれています。
有余涅槃の間には、食事も睡眠も必要ですし、体が病気になることもあるものです。
チュンダの供養した食事にあたって、激しい下痢に苦しまれたのでした。
有余涅槃の間には、このようなこともあるのです。
そのあと、朝比奈老師がよくお説きになったというラゴラ尊者との話が書かれています。
「お釈迦さまが涅槃にお入りになろうとした時、お釈迦さまの一人子のラゴラさまは、御修行もできた方ですが、やはり親子の情、いたく悲しまれました。お経にその時のことを、こんなふうにかいてあります。
「ラゴラはお釈迦さまがいよいよ涅槃に入られるときいて、いつも多くの星にかこまれた月のように、多勢の信者や弟子にかこまれて説法していられた、あの尊い父上の姿も、今日からはもう二度と仰ぐことはできないのだと思うと、胸もつぶれる思いで、その座にいたたまれず、裏の林の中へいって、ひとり涙にくれていた。
これに気づかれたお釈迦さまは、ラゴラはどこにいますか、よんできてもらいたいと、ラゴラを枕辺によばれ、こう仰せになった。
そなたもよく人の子としてなすべきことはなしてくれた。
私も人の親としてなすべきはなしたと思う。
そういう意味ではお互いに少しも悔ゆることはない。
また私が涅槃に入ろうとするのを見て、そなたは悲しんでいるが、今まで肉体のある間は、そなたと同じ処にいることもできたが、はなればなれにいなくてはならないこともあった。
しかし私が涅槃に入ったならば、そなたと同じ処に住んで、もう永遠にはなれることはないのだ。
決して悲しむにはあたらないと、なぐさめられました」
これもすっかりおできなったお釈迦さまとラゴラさまだからそうであるのでなく、私どもも仏心の中に生き仏心の中に息をひきとるのでありますから、これと同じであります。
生きている私どもの仏心の中にお釈迦さまも、ラゴラさまも、先祖も、先だった親兄弟もみな一緒に住んでいられるのであります。」
と説いてくださっています。
お釈迦様の実の子であったラゴラ尊者との心温まるやりとりを拝読していると、これもまたお釈迦様に一層親しみを感じます。
今年も須磨寺のひなあられのような美しい花供曽をいただきながら、お釈迦様のことを思ったのでした。
横田南嶺