師恩の光
「天仰ぎ、地にひれ伏して、願わくば、師恩の光、しみじみと念念感謝」という一節があるのです。
師の恩、師のおかげをいただいて教えを受けとめることができるようになるものです。
四年に一度しかないという閏日、二月二十九日は、円覚寺の前管長足立大進老師のご命日であります。
昨日円覚寺において、祥月命日の法要をお勤めしました。
思えば四年前の二月二十九日の午後一時半頃にお亡くなりになったのでした。
八十七歳でした。
晩年脳梗塞を患われてから療養中でありましたが、円覚寺山内の臥龍庵において、静かに息をひきとられました。
私は、老師の五十代の終わり頃から、実に三十年近くにわたってお仕えさせてもらってきました。
実に人生の大半をこの老師のおそばに置いてもらってきたことになります。
老師は昭和七年大阪の歯医者の家にお生まれになりました。
もともとお体がお弱かったそうで、当時「煙の都」と言われていた大阪では、育たないだろうといわれて、父方の祖母の里に当たる兵庫県の田舎で、育てられることになったそうです。
老師がまだ四歳の時でありました。
体は弱いけど、空気のよい田舎なら育つかもしれないというおやごころでもあったのでしょう。
老師にとって人生の転機となったのは、昭和二十年の春のことでした。
大阪に帰って、高槻の中学から当時の大阪医専へ入るコースを歩むつもりでいらっしゃったそうです。
ところが二月十三日の夜から十四日にかけて、大阪大空襲がございました。
記録によると二百七十四機ものB29が三時間焼夷弾を落とし続け、大阪の中心部はほとんど全燃してしまったのです。
老師が中学を受けるための受験票が、この時家もろとも燃えてしまったのでした。
中学受験のために大阪へ帰る支度をしている老師のところに、両親から「ヤケタカエルナ」という電報が来たそうです。
やむなく田舎の中学に入ったのでした。
ところがその中学校は隣の郡にあって、祖母の実家からは通学できません。
そこで遠縁の人を頼んで、その檀那寺へ下宿させてもらうことになったのでした。
このことで、老師が仏教に縁が結ばれたのでした。
田舎のお寺に下宿しましたが、たまたまその寺に吉川英治作の『宮本武蔵』六巻があり、暇さえあれば老師はそれを読んでいたそうです。
剣豪宮本武蔵をもってしても、どうにも頭の上がらない人物が沢庵和尚であり、愚堂和尚であるのです。
しかも沢庵和尚は同じ但馬の出身なので特に親しみを感じ、いつしか褝の世界に惹きつけられたのだとよく仰せになっていました。
そこで人生の一大事が訪れました。
初めはお寺に下宿していたそうですが、戦後の日本はだんだん食糧事情が悪くなっていき、それはお寺も例外ではなかったのです。
下宿料を五円か十円値上げしてほしい、さもなければお寺に養子に来てもらいたいと二者択一でせまられたそうです。
当時老師のご実家には、老師の他に兄弟三人のいて五人家族で、しかも焼け出された後ですから、御家族はとても下宿代の値上げには応じきれない状態だったらしいのです。
そこで老師はお寺の養子に入ることになったというのです。
この話をなさる時に老師は、いつも多くの方はご縁があってお坊さんになるけれど、私はごえん(五円)が足りなくて坊さんになったのだと言っては人を笑わせていました。
しかし、笑うに笑えぬ話でありました。
老師のお師匠さまにあたる朝比奈老師は、つねに仏心ということをお説きになっていました。
それに対して足立老師はあまり仏心という言葉をお使いにはなりませんでした。
おそばにお仕えしていて、どうしてかなと思いながらも、直接尋ねるのも憚られていました。
ある時老師は私に、「仏心という言葉を使うと、なにかそのような特別なものがあると勘違いされることが多い、そこで自分はあえて仏心とは言わずに、多くのご縁とおかげをいただいているのだと説いて、仏心の世界を表わようにしているのだ」と教えてくださいました。
そこで老師は、常にお互いは、数えきれないご縁とおかげをいただいて生きているのだと説いておられました。
そしてそのご縁も決していわゆる自分を楽しませ、快くしてくれる順縁ばかりではないことを強調されていました。
老師の場合ですと幼くして養父母に預けられたこと、空襲の為に大阪の学校を受験できなかったことも、更に自分の行きたい大学に入らせてもらえなかったことも、それら自分には不幸せに思えたことも、順縁であろうと逆縁であろうとすべて関わりあって、その関わりあいの上で、いまここにいるのだと説いておられました。
ご自身のご体験に裏打ちされたお話ですので、拝聴するたび毎に心打たれたものでした。
ご縁なり、いつも笑顔で おかげさま
と説いておられました。
老師は、よく自分は朝比奈老師に二十五年お仕えしたのだと、ほこりに思って仰っていました。
私は気がつくと、足立老師には三十年近きに亘ってお仕えさせてもらいました。
修行時代には、よく鞄持ちをしていろんなところに連れて行ってもらいました。
お元気な頃の老師は、足が速くてその後を見失わないようについてゆくのがたいへんでした。
さまざまなことを思い出し、師恩に感謝しつつ毎歳忌の法要をお勤めしたのでした。
横田南嶺