icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.17 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2024.03.04
今日の言葉

存在することは、感謝すること

調べ物をしていて、柳宗悦さんの「心偈」を読み返していました。

岩波文庫の『南無阿弥陀仏』の巻末に載っています。

どれも深い含蓄のある言葉が連ねられています。

一番はじめに、

「今日モアリ
オホケナクモ」

という短い言葉があります。

その後に、柳先生の解説があります。

引用しますと、

「仏法に「諸法無我」という教えがあるが、仏教の示す最も根本的な真理の一つを語るものである。

「よろずのものは我独りではない」という意味である。

「諸法」は万物で、「無我」はこれという単独なもののない事を意味する。

こうして生きているのは、数えもきれぬ、もろもろの因縁が組合わさっているのであって、決して自己一人の力に依るのではない。

何もかも依存しあっているので、「自性」と呼び得るものは何一つない。

今日、こうして存在しているのも、多くのものの力に支えられているお蔭である。
仏法で「衆生の恩」が説かれる所以である。

活きることは、やがて無量の恩に浴みることである。

これを想えば、一生は謝恩の連続であろう。

「オホケナクモ」は、「忝ジケナクモ」とか、「勿体ナクモ」とかいう意味である。

ここで存在することは、感謝することになろう。

これが分れば、逆境もまた光明への道に他なるまい。」

と書かれています。

「オホケナクモ」とは今あまり使われることが少ないので、分かりにくい表現であります。

「おおけなし」を『広辞苑』で調べても、

「(「おおけ」は分不相応に大きい意、「なし」は甚だしいの意か)

①身のほどをわきまえない。

②大胆である。」

と書かれていて、なかなか分かりづらいものです。

「「オホケナクモ」は、「忝ジケナクモ」とか、「勿体ナクモ」とかいう意味である」と書いているので、「かたじけない」を『広辞苑』で調べると、

「かたじけなし(元来は、容貌の醜い意を表す語であったらしい)

①恥ずかしい。面目ない。

②(過分の恩恵や好意を受けて)身にしみてありがたい。

③(尊貴さがそこなわれるようで)もったいない。恐れ多い。」

という意味が書かれています。

「もったいない」を調べると、

もともと「もったいなし」は(物の本体を失する意)で、

「①神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである。

②過分のことで畏れ多い。かたじけない。ありがたい。

③そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。」

という意味がございます。

更に柳先生は、

「ある人は、自らの存在を呪うであろうが、有為転変の習わし、そんなものは一つとして固定してはおらぬ。

そう分れば、何所に執着する苦があり、楽があろう。

こうして活きているその事が、勿体ないことなのである。

だから今日活きることは、報恩の行として活かすべきである。

かくして活きる事の意味を教わる。

私はこの句を、この小偈集の序として第一にかかげた。

このたび重病をしたので、なおさらこの真理を味わせて貰った。」

と書かれています。

「今日活きることは、報恩の行として活かすべきである」とは肝に銘ずべき言葉です。

永六輔さんの

生きているということは
誰かに借りをつくること
生きていくということは

その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう

という言葉を思いおこします。

次には、

「御仏イヅチ
汝レハ イヅコ」という言葉が出ています。

そこには、

「次のように思い浮べて下さるとよい。ある人が僧に「仏様は何処にいられるのでしょうか」と尋ねた。

するとその僧は即座に「お前はどこにいるのか」と反問した。

誰でも仏といえば、すぐそれが誰で、何処にいるのかと心に尋ねる。

その居場所は、繰返る千古の問いだともいえる。

だが、かく問うとは何のことか、かく問う私の居場所は一体どこなのか、まずこれを省みずして、仏の居場所など、どれだけの意味が残ろう。

まして仏の居場所が何処か他にあるとすると、私を去ること遠いであろう。

はたと気づけば、自分の居場所以外に、仏の居場所など、あろうはずはあるまい。
私の居場所をつきとめる時と、仏の居場所を見出す時とは、同時であって別時ではあるまい。

私を離れた仏など、もともと二次的なものに過ぎまい。

同じように、仏を離れた私など、意味の浅い私に過ぎまい。

衆生のいる所に、仏があり、仏のいる所に衆生が在ろう。

だから仏の居場所を知ろうとする者は、何より自らの居場所を見つめるべきである。

仏を遠い世界に探る如きは、仏法の領解とはいえぬ。」

と書かれています。

三番目には

「都イヅチ
問ヒノサ中」とあります。

これは一層禅的であります。

柳先生は、

「心が追い求める都は、何処に在るのだろう。

都は遥けき彼方にあるとも思えるのである。

だが、ほんとうにその都にあこがれる心とは、そもそも何であろうか。

考えると、この問いを持たなくば、都は無いに等しいではないか。

求める都は、その問いを離れた遠い彼岸にあるのではあるまい。

実に、その問いの真中にこそ、その都があるのである。

問わない者に、この秘義は通ぜぬ。

「仏よ」というその声に、仏が在るのである。

否、「仏よ」というその声が、既に私の声ではあるまい。

ここでは問うことと、答えられることとは、二であって、二ではあるまい。

人々が「仏よ」というその声は「仏はここに在る」という仏のその声なのである。

有名な傅大士の偈に「欲識仏去処 祗這語声是」とある。」

と書かれているのです。

仏とはと問い求める、その心こそが仏であると示すのが禅の教えなのです。

仏様に手を合わせる、そこにこそ仏様がいらっしゃるのです。

 
横田南嶺

存在することは、感謝すること

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 僧堂提唱(37)
  • 坂村真民 詩(88)
  • 掲示板 (今月の詩)(31)
  • 今日の言葉(2112)
  • 今日の出来事(164)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ