こよなき幸せ
朝早くから小雪が舞う寒い日でありました。
足元も悪いし、法話にどれほどの人が集まるのだろうかと心配していました。
こういう行事では、人の集まりは天候に左右されます。
本堂に入ると、満席でありました。
正直少々驚いたのでした。
やはり、これはただいまのご住職の熱意の故だろうと思いました。
私もすでに二十五年修行道場で修行僧を指導してきました。
百数十名の和尚を育ててきたことになります。
この寺の和尚は、その大勢の中でも群を抜いて修行をよく積まれた方であります。
お寺も一所懸命に勤めてくれています。
お寺にお参りしても檀家総代の方々や、教区の和尚方、住職のご家族総出のお出迎えをいただきました。
昨年とある大きな宗派の法話会に招かれたことがありましたが、会場がガラガラだったことを思い起こしました。
コロナ禍で人の集まるところには出かけにくい事情もあるのだと思います。
そんな経験もあったので、今回もどれほどお集まりなのか、小雪も舞う中でしたので、案じていたのでした。
やはり、その人の熱意に勝るものはないと思いました。
法話のはじめに、最近新聞で読んだ「弔い直し」ということに触れました。
コロナ禍で十分な葬儀などができなかった遺族に、どうしても心残りがあって、もう一度お弔いをやり直す傾向があるという記事であります。
人は大切な方が亡くなると、出来る限りのことをしてさし上げたいと思うものです。
今回もお寺の和尚の三回忌といっても内々ですますことも可能でありますが、わざわざ本山から管長である私を招き、法話を行い、法要を務めるのですから、亡くなった前住職への深い思いがないと出来るものではありません。
住職の熱意と、満堂の聴衆の熱気とに触れて、小雪の舞う日でありましたが、四十分の法話に私も汗びっしょりかいたのでした。
スッタニパータ第二の「小なる章」に、こんな言葉があります。
尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。 (中村元訳『ブッダのことば』より)
森信三先生は、
「尊敬する人が無くなった時、その人の進歩は止まる。
尊敬する対象が、年と共にはっきりして来るようでなければ、真の大成は期し難い。」と仰せになっています。
敬うものを持っていることは、お互い人間を成長させてくれるものであります。
私如き到らぬ者でありますが、住職は尊敬の念をもってお迎えしてくださいます。
そして住職は常に謙虚であります。
満足は足ることを知ることです。
それから感謝の思いであります。
感謝というと、これは恩を知ることから始まります。
かのアショーカ王勅には、どんな広大に布施をなしたとしても、克己、心の清らかさ、報恩、誠の信がないと賤しい人であるという意味のことが書かれています。
このアショーカ王が知恩を強調したことに注目したのは中村元博士でした。
中村先生は「一切の人間は相互に扶助されているものであり、互いに恩を受けているという道理を、アショーカ王は強調する。
国王とても、その例外ではありえない。国王といえども、一切の生きとし生けるものから恩を受けている。
したがって、政治とは生けるものどもに対する国王の報恩の行であらねばならぬ。」
「このような報恩の行は深い宗教的意義をひそめているものである。かれは佛教で説く衆生の恩を確信していたのであった。 ……このような報恩の観念は、おそらく佛教から得たものであろう。」
と述べられています。
『ブッダのことば』には、「感謝」という言葉に解説がございます。
そこには「その直接の語義は「他人から為されたことを感じ知る 」ということで、漢訳は「知恩」とも訳される。
それは、お互いに精神的な喜びを与えあうものである。
どこの国の人にも この気持ちは共通で、日本人は「ありがとうございます」と言い、朝鮮の人は「カムサ」と言う。これは”感謝”の発音を写していうのである。
ベトナムの人は「カンノン」と言うが、これも“感恩”の音を写して言うのである。」
と書かれています。
感恩というと思い起こすのが釈宗演老師の言葉であります。
「アメリカ合衆国から自分第一(ファースト)という個人主義が輸入されて恐ろしい勢いで跋扈しはじめた。この思想の勢いは防止することができない。ナニモ個人主義カニモ個人主義といちいち自己を中心にして割り出す。これが高じてくると危険思想にもなるのです。」
という一文があって、そのあと「自分ファースト」という思想に対して、「我が日本人の思想としては何が中心にならなければならないかといえば、それは「感恩の精神」(おかげさまと恩に感ずること)とでもいうべきものではないでしょうか。」(『禅に学ぶ明るい人生』国書刊行会)と説かれています。
また恩を知って恩に報いるという言葉があります。
恩を知ってこそ、恩に報いることも出来るのです。
実にブッダの説かれた通り、尊敬と謙遜と満足と感謝と教えを聞くこと、これこそがこよなき幸せなのであります。
しみじみそう感じた法要でありました。
こういう住職がいてくれると、お寺も安泰だと思ったことでありました。
小雪舞う寒い日でしたが、汗びっしょりの法話であり、そして心温まる法要でありました。
横田南嶺