怨親平等について講演
「〔仏〕敵・味方の差別なく、平等に慈悲の心で接すること。
と解説されています。
『禅学大辞典』には、
「怨憎する人々に対しても、親愛する人々に対しても、差別することなく、慈悲愛護の念をもって接すること。慈悲喜捨の四無量心を修し、最後の捨心に至って、怨親平等が実現される」と説かれています。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「戦場などで死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐を越えて平等に極楽往生させること。」
とまず解説されています。
敵味方の死者の供養であると説いているところが特徴的であります。
それから更に、
「中世の戦乱が多数の死者を生み、その霊が弔われないままに放置されたのを念仏によって救済した鎮魂行為で、特に時宗(じしゅう)僧の活躍が知られている。」
と説かれて、時宗の僧侶の活躍について書かれています。
時宗は、「遊行宗」ともいいます。
同じく『仏教辞典』には、
「1274年(文永11)一遍によって開創された浄土教の一門」であります。
「唐の善導がその法会に集まる人々を<時衆>と呼んだのにちなみ、一遍も門下の僧尼を時衆と呼んだ。昼夜六時に念仏して浄土を願う同行衆の意である。
それが次第に教団の名となり、江戸時代には<時宗>として公認された」ものであります。
時宗の本山である藤沢の清浄光寺には、「怨親平等の碑」というのがあるそうです。
『仏教辞典』には、
「ちなみに、神奈川県藤沢市の時宗の総本山清浄光寺の境内には、応永23年(1416)から24年にかけての前関東管領上杉氏憲と鎌倉公方足利持氏の合戦の戦没者を供養した応永25年建立の敵御方(みかた)供養塔(怨親平等碑)が現存し、その碑文には、戦火で落命した敵味方の人畜の往生浄土を祈願し、碑の前で僧俗が十念を称名すべきことを刻んでいる。」
というのであります。
これは「死者への慈悲に加えて、死霊の御霊(ごりょう)化を恐れ、念仏による慰霊をはかったものと解されている」のであります。
不慮の死をとげた人の霊は祟(たた)りを招くと恐れられて御霊と呼ばれていたのでした。
御霊会とは、その鎮魂の祭であります。
京都の祇園祭もこの御霊会であります。
そして『仏教辞典』では「さらに文永・弘安の役の蒙古軍撃退ののちに敵味方の霊を弔ったことは、民族や国の対立を超えることを意味し、島原の乱のあとで敵(切支丹(きりしたん))味方の霊を弔ったのは、宗教の相違をも超えることをめざしていたわけである。」
と説かれています。
古くは、平安時代に謀反を起した平将門、藤原純友を朱雀上皇が供養した例があります。
「承平天慶の乱」と呼ばれるものです。
「将門は承平年間に東国で同族間の私闘を続け、939年(天慶2)常陸国府を襲撃して公然と朝廷に反抗するに至ったが、翌年藤原秀郷や平貞盛のために敗死。」
「純友は西国で海賊討伐を命ぜられていたが、939年自ら海賊を率いて朝廷に反抗、941年に敗死」した事件であります。
朱雀天皇は、天慶九年に村上天皇に譲位され、この乱で命を落とした官軍賊軍の兵士達に厚き同情を寄せられました。
天暦元年(一六〇七)三月二十八日に、比叡山延暦寺の講堂に於て、一千人の僧を請じて、大供養を行われたのでした。
その時に上皇は、
「東の方に朝命に背いたもの共といひ、南海に乱を起したやからといひ、何れも軍を遣して之を征伐せしめたが、今は更にその滅亡を憐んで、却って罪の深きを悲しむ。彼等は白刃に伏して首を落し、或は海波に沈んで命を失ふ。
天下のもの罪あるは、その責まさに一人に帰す。
官軍と雖も賊軍と雖も、共にわが王民である。
願はくば、怨親平等に、佛の大慈悲によつて、彼等を救濟せられんことを。」
という趣旨の願文をお作りになっておられます。
これは『日本人の博愛』という古い本から引用しました。
『詩経』に、
「溥天の下(もと)、王土に非ざる莫く、率土(そっと)の浜、王臣に非ざる莫し」という言葉があります。
この広く大きい天の下、広い地の果てまで、すべて王の土地であり、そこにいる人はすべて王の臣だという意味です。
たとえ反逆しようと皆我が民だという広いお心であります。
「一視同仁」という言葉もあります。
これは、親疎の差別をせず、すべての人を平等に見て仁愛を施すことを言います。
このような考えは、古くから東洋にありました。
『論語』に「 或るひと曰く、徳を以て怨みに報ゆれば何如(いかん)、と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いよ、と。」
とあります。
訳しますと、
「ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」
というのです。
訳文は岩波文庫の『論語』にある金谷治先生のものです。
『老子』にも「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。小なるを大とし、少なきを多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。」
とあります。
「一切の人為を排した無為を為し、全く事業を行わない無事を行い、全然、味のしない無味を味わうことを通じて根源的な道の立場を確立しながら、大であれ小であれ多であれ少であれどんな事態に立ち至ろうと、他人から怨みの仕打ちを受けることがあった場合でも徳(道の働き)でもって応ずるのがよい。」
という意味です。
こちらは、講談社学術文庫『老子 全訳注』にある訳文です。
円覚寺に於ける怨親平等の供養は、華厳の教えに基づいて行われたと察します。
ご本尊に毘盧遮那仏をお祀りしているのです。
毘盧遮那仏というのは、鎌田茂雄先生の『華厳の思想』(講談社学術文庫)によれば、
「「光明遍照」と訳す。
無限の光が遍く 照らしだしているもの、その主体が仏であり、光明そのものを言っている。
たとえば、太陽のようなものを連想すればよいと思う。 太陽の光はえり好みをしない。
地球上のこの国は気に入らないから少し量を出し、こちらの国はたくさん光を与えようなどとは考えない、ただ与えるだけである。」
「一切は仏性のあらわれとして輝いており、そこには悪とか迷いというものはないという。」
「どんなものでも仏性の顕現と見、 すべては仏の光明に包まれたものと見るのである。」
「どんなに悪とか煩悩、汚濁、そういうものが現実在であると実際には見えても、仏の光から見れば、それは仮の存在、仮に形を成してあるものだと考える。
『華厳経』の立場からは、悪は非存在になっていき、あらゆるものは仏性のなかに生かされていくのだという考え方になるのである。」
「華厳の場合には、悪とか煩悩、汚濁などはみな仮の存在であり、全部仏のなかに包まれていくので消えていく。」
という教えなのであります。
そんな大きな慈悲の中で、怨親平等と説かれているのであります。
こういう怨親平等について、先日日中伝統思想交流フォーラムで講演したのでした。
横田南嶺