犬にも仏の心はあるのか
この問題について、一月の終わりに、鎌倉禅研究会において、学んでいました。
鎌倉禅研究会は、建長寺派の宗務総長をお務めになっていた高井正俊和尚が主催となって開催されているものです。
毎月建長寺で行われていますが、この数年来、一月のみは円覚寺において、小川隆先生と私とが講師を務めています。
一月だけ二人が現れるというので、小川先生はいつも、 染之助・染太郎のたとえをなさっています。
染之助・染太郎というと、 染之助さんが和傘の上で、鞠を回して、染太郎さんが話術で笑わせるというものでありました。
かつてお正月のテレビ番組では定番となっていたのでした。
しかしながら、お二人とももうお亡くなりになっています。
私はかつて、毎回小川先生がそう仰るものですから、先生に、今の若い人にはもう通じませんと申し上げたことがありました。
今回も 染之助・染太郎さんの話をして、私から今の若者には通じないと言われたとお話くださり、更に、今日の会場の皆さんをみると通じそうだと笑わせてくれていました。
今回、私は円覚寺の開山仏光国師が、趙州無字の公案について修行されていた内容についてお話しようと準備しました。
そのことに合わせて小川先生は、「禅の語録を読む 「無字の歴史」序説」と題して、唐の時代から宋の時代にかけて、この趙州の無字の公案がどのように用いられてきたのか、お話くださいました。
数日前に、小川先生から講義の資料をいただきましたが、実に綿密詳細な資料で恐れ入ったのでした。
そもそもこの無字というのはどういうことかというと、『無門関』の第一則にある公案であります。
趙州和尚にある僧が質問をしました。
犬にも仏性がありますかと。
趙州和尚は無と答えました。
これだけの問題なのです。
それに対して、無門慧開禅師は、『無門関』の中で次のように説いています。
現代語訳は先日小川先生が用意していただいた資料から引用します。
小川先生の『中国禅宗史』にも書かれているものです。
「参禅には、祖師の関を突破せねばならぬ。
妙悟には、思路を追い詰めそれを断絶する必要がある。
祖師の関門を突破せず、思路が断絶されなければ、みな草木にとりすがる亡霊となりはてよう。
しからば、 祖師の関門とは如何なるものぞ?
まさしく、この“無〟の一字こそ、禅門の第一の関門にほかならぬ。
かくしてこれを「禅宗無門関」と名づける次第である。
そこを突破しうるものは、親しく趙州禅師に対面するのみならず、歴代の祖師たちとも手をとりあってともに歩み、 互いの眉毛を結びあわせて、 一つ眼で見、一つ耳で聞くことができるであろう。
これを痛快といわずして何といおう!
さあ、この関門を突破しようという者があるであろう。
ならば、骨の節々から一つ一つの毛穴まで、すべてを挙げて体まるごとに一個の疑いのカタマリを立て、 “無”の一字を参究するのだ。
昼も夜もこれにとりくみ、そこに虚無という理解も、有る無しという理解も加えてはならぬ。
まっ赤に焼けた鉄の玉を丸呑みにしたように、吐こうにも吐き出せぬまま、これまでの悪しき知見をすべて滅し尽すのだ。
すると、じっくり熟成するうちに、自ずと内と外とが一枚になってくる。
それは口のきけぬ者が夢を見たように、ただ自身がうべなうほかない境地である。」
というものであります。
こういう無の一字を公案として与えられて、今も修行僧は坐禅にとりくんでいるのであります。
この犬に仏性があるかという問題は、実は趙州和尚よりも前にも既にあることを今回学びました。
馬祖のお弟子の興善寺惟寛禅師という方の問答に、
犬にも仏性があるかと問われて、惟寛禅師は有ると答えています。
和尚にはありますかと問われて、惟寛禅師は無いと答えているのです。
生きとし生けるものには皆仏性があると経典に書かれています。
それなのにどうして和尚にはないのですかと問われて惟寛禅師は、自分は生きとし生けるものではないと答えます。
では仏ですかと問われて、仏でもないと答えます。
では何ものですかと問われて、ものでもないと答えます。
見ることや思うことができますかと問われて、思っても及ばない、あれこれ考えても得ることができない、これを不可思議というと答えています。
仏性すなわち仏の心は見ようとしても見えない、考えても得られるものでもない不可思議というのです。
これが仏性でもあります。
仏性というと仏になる可能性というのがもともとの意味で、その仏になる可能性が生きとし生けるものには内在していると説かれています。
よく小川先生が喩えで説かれる梅干しおにぎりのようなものです。
お米の中に梅干しが内在しているのです。
しかし、馬祖禅師の禅の教えでは、梅干しのように内在しているのではなく、五目おにぎりのように、具はお米のなかに混ざっていて、切り離せないものだと喩えられていました。
仏性は私たちの日常のあらゆる営みのなかに現れているというのであります。
しかし、今回小川先生は、五目おにぎりの喩えでは、おにぎりという形あるものの中だけの話になってしまって、その外側には及んでいないと仰っていました。
そこであらたな喩えが、海の中のクラゲでありました。
海に浮かぶクラゲは薄い膜の中の大半が海の水であります。
クラゲの外にも海の水がいっぱいなのです。
仏性は私たちの中にも充満していて、その外にも、世界にも宇宙にもいっぱいに充満しているのであります。
また電波の喩えも分かりやすいものでした。
この部屋にはWi-Fiの電波が行き渡っています。
どこに電波があるのかと問われても目で見ることもできません。
これですと示すことも出来ません。
しかし、スマホなり、タブレットなり端末を使えば、あらゆる情報や画像、動画がそこに現れるのです。
どんな情報も画像も動画も皆電波からきています。
電波は色も形もありませんが、端末を通してあらゆる姿を現わしているのです。
電波は仏性なのです。
仏性は色も形もなく目にも見えませんが、私たちの目や耳や鼻や舌や皮膚や意識を通して現れてくるのであります。
仏性は宇宙全体にゆきわたっているのです。
その仏性が自らに顕わになっていることを自分自身で感得させるために「無字」の修行があるのであります。
徳山縁密禅師のお弟子のはなしが印象に残りました。
徳山縁密禅師のお弟子が、この犬にも仏性があるかという問題を工夫していました。
一所懸命に打ち込んでいると、なんと犬の頭が太陽のように大きくなって、その大きな口を開けて襲いかかってくるようになりました。
怖くなって、隣の僧に打ち明けると、僧は縁密禅師に伝えてくれました。
縁密禅師は、その僧に言いました。
怖れることはない、今度犬が現れて大きな口を開いてきたら、思いっきりそこに飛び込むといいと教えてくれました。
そう言われて、坐禅しているとまた犬が現れて大きな口を開いてきたので、思い切ってその口に飛び込んだら、何と禅堂の中のロッカーに頭をぶつけて気がついたのでした。
そこで悟ったというのであります。
頭をぶつけて、痛いという処に仏性が顕わになっているのです。そのことに気がついたのです。
のちに立派な禅師となったという話でした。
五祖法演禅師の頃から、この無の一字を工夫する修行が行われるようになって、大慧禅師は、士大夫という在家の方の為にこの修行を薦めていたのでした。
それが南宋の頃になると、出家した僧が何年もかけてこの無字の修行をするようになっていたというお話でありました。
そのお話を受けて、私は南宋の無学祖元禅師が実際にどのように無字の修行をなさったのかを話をしたのでした。
無になりきって、天地いっぱいの自己に目覚める修行なのであります。
横田南嶺