禅を学べる季刊誌『禅文化』
今回の特集は、「高台寺・信仰と美 北政所四百年遠忌」となっています。
高台寺というと、かつて建仁寺で修行させてもらったことも私にとってはとても懐かしいお寺でもあります。
今や高台寺は、京都でも有名な寺院として知られています。
拝観寺院としてじつによく整備された美しく素晴らしいお寺であります。
まだ私が建仁寺で修行していた頃は、今のような拝観寺院ではありませんでした。
これから高台寺を整備してゆこうという時で、建仁寺で修行していた私なども、高台寺へお掃除に通っていたこともありました。
建仁寺派の大切な寺院なのであります。
今回の『禅文化』は、表紙も新たにして、更に中には、はじめてカラーグラビアを入れることにしました。
禅の文化というと、どうしてもわびやさびの文化と思われることが多いのですが、決してそれだけではないのです。
その時代その時代の素晴らしい文化を取り入れているのも禅の特徴なのであります。
高台寺の美というと、私などは、高台寺蒔絵のことしか頭になかったのですが、なんと素晴らしい打敷が残っているのであります。
素晴らしい打敷の写真がカラーで掲載されています。
打敷とは、仏前に供える灯明や香炉などを置く前机に書ける布のことであります。
これが高台院こと北政所ねね様寄進の打敷などが残っているのだそうです。
高台寺がどんな寺なのか、今回の特集のはじめに高台寺執事長の奥村紹仲和尚が、「北政所四百年遠忌に臨んで」と題して書いてくださっています。
冒頭の部分だけを引用させていただきます。
「鷲峰山高台寺は臨済宗建仁寺派のお寺で、慶長十一年(一六〇六)、豊臣秀吉の正室・北政所ねね様(一五四八~一六二四)が秀吉の菩提を弔うために建てられました。
高台寺建立に際し、秀吉とねね様が暮らした思い出深い城である伏見城からは化粧御殿、開山堂、霊屋、観月台、表門、大方丈、小方丈、さらに傘亭、時雨亭などの茶室も移され、壮麗な高台寺の堂宇が落慶したのであります。
ねね様はこの高台寺を終焉の地として、秀吉だけでなく養父母や生母、そし自身も一緒の寺に祀られることを望んでおられました。ねね様は、七十七歳で亡くなるまで十八年間をこの高台寺で過ごされました。今も霊屋のご自身の木像の下に眠っておられます。」
というお寺なのであります。
開山堂、霊屋、観月台などは素晴らしい境致となっています。
私などもずっと建仁寺派のお寺ですから、臨済宗の寺とばかりおもっていましたが、もともとはじめは曹洞宗のお寺として開創されたことを今回の特集で学びました。
しかし、いろんな事情があって、北政所ねね様のご存命中には臨済宗となっていたのでした。
滝瀬尚純先生が、「高台寺開創の歴史を観る」と題してそのあたりの経緯を詳しく書いてくださっています。
臨済宗に転派したのは、三江紹益(一五七二~一六五〇)禅師の時であります。
ほかにも有名な高台寺蒔絵についての論文もございます。
打敷についての研究も書かれています。
またこの度高台寺様では、北政所四百年遠忌にあたって、小方丈を再建されるというので、そのことに関する記事もございます。
小方丈は創建当初からあったそうで、やはり伏見城から移築されたものだったとのことです。
他に連載物では、僧堂の紹介があって、今回は天龍寺の僧堂が載っています。
ただいまの天龍寺僧堂の老師は阪上宗英老師でいらっしゃいます。
昭和五十七年のお生まれですので、私よりは十八年もお若い老師でいらっしゃいます。
令和三年に僧堂の老師になられた方で、新進気鋭の老師のお話は読み応えがあります。
私も二十五年前僧堂師家に就任した頃を思い起こしました。
阪上老師とは一度親しくお目にかかったこともあり、聡明で、実直な老師だと感じました。
これからのご活躍を大いに期待しています。
それから安永祖堂老師の誌上提唱『碧巌録』は、今回もとても読み応えのあるものであります。
安永老師の提唱からは毎回多くのことを学ばせてもらっていますが、今回私は「看経の眼」ということについて学ばせてもらいました。
看経の眼が大事だというのは、禅では経典をみるには見識が必要だということであります。
今回取り上げられている『碧巌録』の評唱の中で、ある部分について白隠禅師が、「この評唱の此の個所は、後に誤って入ったのではないか」と書き入れをされていることから話を深めてくださっています。
禅では古くから書き残されたものでも、実際に修行を重ねた見識からみて「これはおかしい」とか「間違って入ったのであろう」とはっきり言ってしまうのであります。
そこで安永老師は「如何に『碧巌録』というものであっても祖録というものを拝読するときには、そこで自らの見識、境涯というものを置いて、その先に祖録の言葉をみていく。それが語録を主体的に読むということになるのではありますまいか。」とお示しくださっています。
深い御提唱であります。
それから大乗寺の河野徹山老師の誌上提唱「大道真源禅師小参」もいつも読み応えのあるものです。
今回には日峰宗舜禅師(一三六八~一四四八)が妙心寺を再興された時の話を書いてくださっています。
今は大伽藍を誇る妙心寺ですが、応仁の乱の余波で一時期没収されていたのでした。
永享年間(一四二九~一四四一)妙心寺が再興されることとなり、妙心寺の住持として日峰禅師に白羽の矢が立ったのでした。
その頃の妙心寺の様子について、河野老師は『正法山六祖伝』から次のように書かれています。
「しかし、妙心寺はすでに荒れ果てた廃墟となって長い年月が経っていた。
唯だその中に開山無相大師の微笑塔のみが巍然として屹立するのみであった。
師は謹んで祖塔を望みみたが、みるにしのびなく、目を挙げることもできなかった。
爾来来る日も来る日も雲水を率いて作務に明け暮れたのである。
瓦礫を拾い、繁茂した荊の藪を刈り開き、ありとあらゆる手立てを講じて境内を整備していった。
そして、規則に則って少しずつ諸堂伽藍が整っていった。
師は開山堂の傍らに小院を開創し、「養源院」と名づけた。
そしてそこに自らの寿塔 (生前墓)の場所をえらび、塔を建立して、ここに骨を埋める覚悟をきめたのであった。」
というのであります。
今の妙心寺の再興される時にこんなご苦労があったのだと学ぶことができました。
他にも佐々木奘堂さんの連載もあり、今回は私のことについても書いてくださっています。
それから彭丹さんの「唐物と禅」という連載には、国宝の破れ虚堂の墨蹟について詳しく紹介してくれていて、大いに学ぶところがありました。
今回も読みどころ満載の『禅文化』であります。
横田南嶺