無の一字
趙州和尚の無字というのは、『無門関』の第一則にある公案であります。
趙州和尚にある僧が、犬にも仏性がありますかと質問しました。
趙州和尚は無と答えたという話しであります。
「仏性」というのは何かというと、岩波書店の『仏教辞典』には、
「衆生が本来有しているところの、仏の本性にして、かつまた仏となる可能性の意。」と解説されています。
大乗の『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」という有名な言葉がございます。
これはどういう意味かというと、これも『仏教辞典』には、
「すべての衆生に仏となる本性がある、という教説」であります。
更に「仏性は仏の因の意で、衆生の中にある仏と同じ徳性で、それが成仏を可能にする。
しかもそのような可能性がすべての衆生に例外なく平等にあると説くところに、この教説の特色があり、中国・日本の仏教に大きな影響を与えた。」
と解説されています。
衆生というのは生きとし生けるもののことです。
生きとし生けるものに皆仏性があると『涅槃経』にも書かれているのです。
それなのに趙州和尚は、なぜ犬には無いと言ったのか、僧が更に問うと、
趙州和尚は犬には業識性があるからだと答えました。
ところが、この「無」の一字が、特別な意味をもって、坐禅修行の課題となっていったのです。
平野宗浄老師の「狗子無仏性の話をめぐって」(『禅学研究』六二、一九八三年)という論文には、
「そこでこの公案の目指すところは、学人をして無に一切の手係りをもたせないことである。無を思惟の対象とさせないことである。既にこれを思惟の対象とせず、しかも只麼に挙せよというからには学人の前に残された一途は、世間でよくいう「無に成りきる」ことしかない。
学人は「無ーつ」「無ーつ」とこの無の一念について精神を集中させる。無字はいわば精神統一の方法となった。」
という言葉がありますが、まさにその通りで、ただ「無になりきる」という修行になっていったのです。
そのようになるのには、五祖法演禅師が大きな役割を果たされています。
今回も小川先生は、五祖法演禅師の言葉を紹介なさっていました。
五祖禅師の語録のことばですが、これは小川先生の『語録の思想史』(岩波書店)に現代語訳が載っていますので、そちらを引用させてもらいます。
「法演禅師は上堂し、まず次の公案を提起したー僧が趙州に問う、「イヌに仏性が有りましょうか」。趙州、「無」。
「一切衆生にあまねく仏性あるはず。それが何ゆえ、イヌには無いのでございましょう」。趙州いわく、「やつに業識あるがゆえだ」。
これについて法演は言うー諸君、汝らはみなひごろ、これを如何に解しておるか。
わしはひごろ、ただこの「無」の字を提起して、それで止める。
汝らもこの一字を突き抜ければ、天下のすべての人も、汝を如何にもしえぬであろう。
では、汝らはこれを如何に突き抜けるか。
これを徹底的に突き抜けうる者は、おるか。
おらばここへ出てまいって、一言申せ! だが「有り」と言うても「無し」と言うても「不有不無」と言うてもならぬ。さあ、そこで汝らは何と言うか。以上。」
という五祖禅師のお説法なのであります。
もうここでは、一切の衆生に仏性があると説かれているのに、どうして犬にないのですかという、後半の問いは切り捨てられています。
更に五祖禅師のお弟子のそのまたお弟子にあたる大慧禅師は、『大慧書』の中で次のように説かれています。
こちらは小川先生の『中国禅宗史』に現代語訳がありますので、そちらから一部を引用します。
「ともかく、妄想顛倒の心・思量分別の心・生を好み死を悪む心・知見解会の心・静寂を願い喧騒を厭う心、それらを一気に押さえ込むのだ。
そして、その押さえつけたところで、一箇の話頭を看よ。
「僧、趙州ニ問フ、狗子ニ還夕仏性有リヤ。州云ク、無!」と。
この「無」の一字こそは、あれこれの悪しき知識・分別を打ち砕く、強力な武器にほかならない。」
というのであります。
無の一字は、知識分別を打ち砕く武器となっているのです。
また今回は道元禅師のお師匠様である天童如淨禅師の語録のことばも学びました。
如淨禅師のお説法に心に念が湧いてどうしようも無いときには、この趙州の無字が鉄の箒であって、この無字の箒で念を払って、払ってもなお念が起きれば更に鉄の箒で払うのだと説かれています。
仏光国師は十七歳で発心して、この趙州の無字に参じました。
はじめは一年で仕上げるつもりでしたが、見解を得ることができず、また一年工夫しましたが、得るところはありませんでした。
さらに三年続けましたが、手がかりは得られなかったと語録には述べられています。
しかし、五年六年めになると、手がかりは得られなかったけれども、この無字の公案の取り組みが熟して、夢の中にも無字が現われ、世界全体がただ一箇の無字となったというのです。
そこである老僧から無字を手放すように指示されました。
ところが無字を手放しはしましたが、この無字はいつまでもわたしについてまわり、そんな状態が一年ほど続いて、もはや無字が坐禅中にも見えなくなり、わが身も見えなくなったというのです。
空蕩蕩地という世界になったのです。
この空蕩蕩地というのは、広々とした心の世界であって、修行の入り口でもあります。
さて、私などは『無門関』の第一則に趙州の無字が取り上げられて、無門慧開禅師がその評唱を書かれて、それが無字の工夫として定着したと思っていましたが、『無門関』が刊行されたのが、紹定二年、一二二九年なのです。
仏光国師は、一二二六年のお生まれで、無字の修行を始めた頃が、一二四三年頃なので、その頃にどれほど『無門関』が読まれていたのかどうかは分かりません。
今回は、ディディエ ダヴァン先生もお見えになってくれていました。
ダヴァン先生には『『無門関』の出世双六―帰化した禅の聖典』(平凡社、2020)という著書もございます。
『無門関』は中国においてはそれほど読まれてはいなかったとおうかがいしました。
大慧禅師以来の無字の工夫が受け継がれて、仏光国師も径山で無字の修行をなさったのだと分かりました。
無になりきるのもたいへんですが、いろいろ学ぶことのある無の一字なのです。
横田南嶺