肯定と否定
なかなか分かりにくい公案であります。
趙州和尚の話です。
趙州和尚は西暦七七八年から八九七年までの方で、およそ百二十歳という長命な方でいらっしゃいます。
『無門関』にある文章を訳してみます。
趙州和尚が一人の庵主を訪ねて、「有るか、有るか」と問いました。
庵主は拳をたてて見せました。
この拳をたてるという動作は、仏法の核心を端的に示すものとして用いられています。
それを見た趙州和尚は、「水深が浅くて船を停めることができぬ」というや、すぐさま立ち去りました。
また別の庵主を訪ねて同じことを問いましたら、その庵主も同じように、拳を立てました。
この時趙州和尚は、
「放つも奪うも殺すも活かすも、自由自在だ」といって、すぐさま礼拝したのでした。
放つも奪うも、殺すも活かすというのは、肯定と否定であります。
肯定と否定が自由自在というのがすぐれた禅僧のはたらきなのであります。
『無門関』では、無門慧開和尚が、
「おなじように拳をたてたのに、どうして一人を肯定し一人を否定したのか。さて、理解しがたい所はどこであろう」と疑問を呈しています。
理解し難いところというのは、原文では、「誵訛」となっています。
皆で『漢辞海』を開いて、この「誵訛」という言葉を調べてみようと思いましたものの、「誵」という字は『漢辞海』にはございません。
諸橋轍次先生の『大漢和辞典』には載っています。
そこには「誵」という字は、「ほしいまま。ことばにつつしみがない」と解説されています。
『禅学大辞典』には「誵は言葉に慎みのないこと。訛はあやまり。言葉が錯雑して判然と意味のつかめないこと。」と解説されています。
更に無門禅師は「「もしもここで適切な一語をつけることができれば、趙州の舌に骨が無く、起こすも倒すも自由自在であることが看てとれるだろう」と批評しています。
「舌に骨が無い」というのは「舌頭骨無し」という言葉であります。
この「舌に骨が無い」について、柳幹康先生は、『新国訳大蔵経 中国撰述部①ー6 禅宗部 法眼録 無門関』で「一見相反する表詮 (肯定的言語表現)と遮詮(否定的言語表現)を自由に用いて真理を示す優れた言語運用をいう」と解説してくださっています。
肯定的な表現と否定的な表現を自由に用いているのが、趙州和尚のはたらきなのです。
ある時は、「水深が浅くて船を停めることができぬ」と否定的に表現し、あるときには、「放つも奪うも殺すも活かすも、自由自在だ」といって、すぐさま礼拝したのでした。これは肯定的表現であります。
馬祖禅師はもともと仏とはと問われて「即心即仏」と答えられました。
ほかならぬあなたの心こそが仏だというのであります。
仏を外に向かって求めている人にとって、その迷いを取り払ってくれる一言であります。
馬祖禅師ご自身、「即心即仏」と説いたのは、赤子の啼くのをやめさせるためだと仰せになっています。
仏を外に求めて啼いている子を泣き止ますために、肯定的に表現してほかならぬあなたの心が仏だと説いたのでした。
しかし、それにとらわれてもまた迷いとなってしまいます。
このありのままの心がそのまま仏だと安易に受けとめてしまうと、何でもよくなってしまいますし、努力もしなくなってしまいます。
そこで馬祖禅師は、泣き止んだら、非心非仏と説かれました。
真実は心でもない、仏でもないというのです。
これは否定的表現であります。
馬祖禅師に仏とは何か問うて、即心即仏という一語を聞いて悟った大梅禅師は、その後山中にこもっていました。
塩官禅師の会下の僧が山の中で、たまたま大梅禅師に出会います。
塩官禅師は、大梅禅師だとわかり、更に僧を大梅のもとに送りました。
近頃馬祖禅師は、非心非仏と説いていますと伝えました。
大梅禅師は、動揺することもなく、たとい「非心非仏」と説かれても、私はただ「即心即仏」なるのみだと答えたのでした。
その答えを聞いて塩官禅師も大いに認めたという話であります。
これは『祖堂集』の記述で、『景徳伝灯録』では馬祖が、「梅子熟せり」と認めたことになっています。
否定ばかりでもいけないし、肯定ばかりでもいけません。
人は肯定なら肯定、否定なら否定とどちらかに決めて欲しいと願うものですが、どちらでもないし、どちらもあり得るのが真実であります。
一生懸命修行しているけど、自信を無くしているような者には、肯定してあげて、褒めることも必要です。
しかし、ただ怠けているだけでしたら、そんなことでは駄目だと否定することも必要であります。
肯定と否定とどちらもその時に応じて、自由に使い得るのが、「舌頭骨無し」という趙州和尚の心境なのであります。
しかし、入矢義高先生が、『自己と超越』(岩波現代文庫)の中の「表詮と遮詮」という章で、禅の世界では、遮詮という否定が好まれるようになっていると指摘されています。
しかし、六祖慧能禅師は、なんでも断滅せよ、滅却せよという否定一辺倒の教えを「法縛」、法に縛られた在り方とし、また「辺見」、かたよった見解として批判しているのだと入矢先生は指摘されています。
やはり、否定と肯定とその両方を自由に使いこなしてこそ、舌頭骨無しという禅の教化なのであります。
横田南嶺