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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.01.28
今日の言葉

貧しさと豊かさ

「心の貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである。」

とは有名な聖書の言葉であります。

道元禅師の『正法眼蔵随聞記』には、仏道を学ぶ者は、貧でなければならないと再三説かれています。

『正法眼蔵随聞記』巻四に、

「学道の人はもっとも貧なるべし」という一言があります。

講談社学術文庫の『正法眼蔵随聞記』にある山崎正一先生の現代語訳を引用します。

「道を学ぶ者は、とりわけ貧乏でなくてはならぬ。世の人を見るに、財産のある者には、怒りと恥辱の二つの難が、必ずやって来るものだ。

財産があれば、これを奪ってやろうという者が出て来るし、こちらは取られまいとして、相手の理不尽なやり方に怒らざるを得ないのだ。

あるいは、口論になり、訴訟となって、原告と被告との取り調べや対決が行われることになり、ついには、なぐり合いや合戦が起ることになるのだ。

こうして、怒りにおそわれ、恥辱を受けることになるのだ。

貧しくて、欲ばらなければ、決して怒ることもなく、恥辱を受けることもない。 安楽で自由なのだ。

その証拠は、目の前にはっきりしている。 教典によるまでもないことだ。

それのみでない。

昔の人も後世の賢者も、それはいけないことだといい、天の神々も仏も祖師も、それは恥じしめるところである。

しかるに愚かにも財宝を貯え、怒りの心をもつことになり、こうして愚か者となることは、恥辱の中の恥辱である。

貧しくあって、悟りの道を志す者は、昔の賢者や後世の聖人が尊ぶところであり、仏祖や不可視の神々が、よろこばれるところである。」

と説かれています。

修行道場は、清貧を尊ぶ場でもあります。

二十日から一週間摂心を行っていました。

雪安居最後の摂心であります。

最終日の二十六日は、講了でありました。

この七日間は、『無門関』の講義をしていました。

第十則に、「清税孤貧」という問題がございます。

曹山和尚に、清税という僧が言いました。

「わたくしは貧しく身よりがありません。どうぞ先生、おめぐみください」。

「曹山は「税どの』と呼びかけた」。

「清税は「はい」とこたえた」。

曹山は「青原白家の名酒を三杯も飲んでおきながら、まだ唇も潤していないと言うとは」と言ったという話であります。

はじめにこの僧が「清税孤貧、乞う師賑済せよ」と言ったことについて、小川隆先生は、『語録のことば』(禅文化研究所)のなかで

「…四字四字で平仄の整ったこのセリフは、いかにも型どおりの口上ふうであって、さし迫った切実さとは無縁のもののように思われる。

ことさらにへりくだったこの一言は、すべてを捨て去ったわが無一物の境涯、そこに加えうるものがあるなら加えてみよという、むしろ傲岸で挑発的な意を含んだものと看るべきであろう」と書かれています。

山田無文老師も、禅文化研究所の『無文全集』第五巻にある無門関の提唱の中で、

「一日、僧が来て尋ねた。「わたくし清税と申します。まことに素寒貧で身寄りとてもございません。何とかお恵みをいただいてお助けにあずかりたいと思います」。

この僧、自ら清税と名乗って出たところ、既にただの雲水ではあるまい。

極めて謙譲の態度のようであるが、実は自信満々、逆に曹山の真価を試験せんとするところが見える。」

と説かれています。

確かに自らの名前を名乗って出るのは、そういう一面があるのかもしれません。

無文老師は、同じ本の中で、

「「学は苦学より美わしきは無く、道は貧道より尊きは無し」などと言っても、今ごろの若い人たちは承服せんかも知れん。

楽に学問ができ、苦労せずに銭の儲かることを皆考えておる。

人生の価値などという難しいことは考えようともしないようだ。

しかし、敢えて時代に追随しようとも思わぬから、相も変わらぬ時代外の閑妄語を言わせてもらおう。

しかし、ことさら文明に反逆しようとも思わぬ。

ランプの灯よりは蛍光灯の明るさがよく、昔ながらの臭い雪隠よりは水洗便所のほうがはるかに気持ちがよい。

敢えて文明をこばまぬだけで特に求めはしない。

あるがままを素直に受け入れて捉われのない柔軟心が、清貧の心でもあろうか。」
とも説かれています。

呼ばれたら、思わずフッと振り返る、はいと返事をする、そのはたらきが、尊い仏心の営みに他ならないのです。

「汝等諸人、各自の身中に無価の大宝有り。」と説いたのは、大安禅師でありました。

その素晴らしい宝が「眼門より光を放ちて山河大地照らし、耳門より光を放ちて一切の善悪の音響を領覧し、六門より昼夜常に光明を放つを亦放光三昧と名づく。」

というのであります。

目でものを見る、耳で聞く、鼻で匂いを嗅ぐ、舌で味わう、皮膚で触れて感じる、心であれこれ思いはかる、その素晴らしいはたらきになぜ気が着かないのかと問うているのです。

見るも聞くのも皆その素晴らしい宝のはたらきなのであります。

そこを曹山禅師は「青原白家の名酒を三杯も飲んでおきながら、まだ唇も潤していないと言うとは」と仰せになったのでした。

青原白家の酒は当時の銘酒のことです。

「白」とは酒屋の姓であります。

「酒三盞」とありますが「盞」は「さかずき」です。

ここではお酒の量詞として使われています。

「はい」と返事することによって、仏としての素晴らしいはたらきを発揮しておきながら、まだ貧しいというのは、お酒をたらふく飲んでおきながら、一滴も飲まぬと言っているようなものだというのであります。

いろいろ、体のことを探求してきても、この体には素晴らしいはたらきが隠されていることに気がつきます。

こんな素晴らしい体のはたらきをもっていながら、外に求めるとは愚かなことだと少しずつ分かってきました。

貧しいように見えていて、実は豊かなものにあふれているのであります。

 
横田南嶺

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