一日作さざれば一日食らわず
円覚寺においても、早朝に仏殿においてご命日の法要をお勤めしています。
よく人から聞かれることに、管長にはお休みがないのですかという問いがあります。
考えてみると、お休みという概念がありません。
世間の方のように土日がお休みということはありません。
祝日が休みではありません。
盆休み、正月休みがあるわけではありません。
だいだい、むしろ世間の方の休日の方が忙しいものです。
年中はたらいているようなものであります。
それをたいへんだとも苦痛だとも思ったこともありません。
毎日ご飯を食べるのと同じような感覚なのであります。
一日食事をいただくからには、一日はたらくのは当たり前という思いで暮らしています。
それは「一日作さざれば、一日食らわず」という禅の言葉が、長年禅寺にいて身にしみているからかもしれません。
禅寺では「作務」ということを重んじています。
もともとお釈迦様の教えでは、『遺教経』に、「草木を伐採し、土を耕し、地面を掘るなどしてはならない。」と畑を耕すなどの労働を禁じられていました。
それが禅の教えにおいては、積極的にはたらくようになっていったのでした。
それが「作務」であります。
「作務」を『禅学大辞典』で調べてみると、
「坐禅・看経などのほかに、採薪(薪を採ること)や掃除などの労務をいう。
禅門ではこの作務を重視し、同じく修行の一としている。
「師凡そ作務執勞、必ず衆に先んず」(廣燈録八 百丈懐海章)」
と書かれています。
この「師凡そ作務執勞、必ず衆に先んず」というのが百丈禅師のことなのであります。
百丈禅師のことを『禅学大辞典』で調べてみますと、
「七四九~八一四。
懐海 (結)福州(福建省) 長楽の人。
姓は王氏。大智・覚照・弘宗妙行などと諡されており、一般には百丈禅師と称されている。
二○歳で西山慧照について出家し、南岳の法朝律師に受具し、廬江(四川省)に大蔵経を閲し、馬祖道一に参じて印可を得た。
懐海に帰依する四方の道俗が相謀り、洪州(江西省)新呉県の大雄山に一寺を建立した。
百丈山大智寿聖禅寺で、懐海は開祖となり、ここで大いに禅風を鼓吹した。
その著〔百丈古清規〕は、ただ序のみを存するにすぎないが、彼が禅林清規の開創者であることは中国禅宗史上に忘れることができない。
以来禅は、一層中国の風土生活に即したものになっていった。
弟子に潙山霊祐・黄檗希運等多数の竜象がいる。
唐、元和九年正月一七日示寂。世寿六六(〔宋高僧傳〕〔景德傳燈録〕は世寿九五とする)。」
と書かれています。
あるとき、私が、何かの講座で百丈禅師は九十歳になっても作務をなさっていたと話をしていて、この生没年を紹介すると、七四九年のお生まれで八一四年にお亡くなりになっていますので、満六五年の生涯なので、あわてたことがあります。
これは景徳伝灯録などでは、九十五歳となっているのです。
また私が中学生の頃から愛読していた、大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』には、次のように書かれています。
大法輪閣から出された『驢鞍橋講話』から引用します。
「インド時代には僧は戒律によって勤労は禁じられていた。
戒律でも、インド時代の戒律と中国に入ってからの戒律は違う。
で、中国に入ってからは、むしろ勤労をたっとぶようになった。
有名な百丈和尚が九十になっても作務をした。
そこで弟子たちが、もう高齢だから、作務をするというのはお気の毒だと言って、鍬や鎌を隠してしまった。
その日も百丈禅師は、作務の仕度をして出てみたが、自分の使う鎌も鍬もない。
仕方がないから部屋に戻ってじっとしていた。
やがて一同は作務から上がってきて、お昼のご飯を食べる。
柝や板で合図をする。
しかし百丈は食堂に出て来ない。
初めは気にもとめず過ごしたけれども、夕飯の時も出て来ない。
翌朝の粥座の時にも出て来ない。
そこで初めて「おかげんが悪いんじゃないか」というので隠寮に行くと、百丈は別に変わったこともないように坐っている。
「老師は、どうしてお食事をお召し上がりになられないのですか」と言った時に、有名な「一日作さざれば一日食わず」と言った。
自分は一日仕事をしていない、だから一日食事は頂かない、こう言った。
社会主義の国でも、「働かざる者は食うべからず」という言葉がある。
しかしこれは外からの強制である。
百丈の場合は自制。自分で、私は仕事をしないから頂きませんと。
一日作さざれば一日食わず。」
とあります。
こんな話を中学生の頃に読んで感動したのでした。
そこで九十歳になっても作務をしていたという、九十の老僧が作務をしている姿が頭の中に刻み込まれていたのでした。
そこで百丈禅師の作務の話がどこにあるか調べてみると、古いのはやはり『祖堂集』であります。
このことについては、いつもお世話になっています小川隆先生の『禅僧たちの生涯』(春秋社)に書かれていますので、引用させてもらいます。
『祖堂集』巻一四、百丈章にある言葉です。
小川先生の現代語訳を参照します。
「百丈禅師がふだんから厳しく高潔な志操をたもっておられたことは、喩えようもないほどであった。
日々の労働では、必ず修行僧たちに先んじて励まれた。
役職の僧が見るに忍びず、ひそかに作業の道具を隠し、師に休息を願うと、師はおおせられた。
「わたしには徳が無い。どうして人さまばかり働かせられよう?」
そして寺中くまなく道具をさがしたが見つからず、そのまま食事を摂ることも忘れてしまわれた。
ここから「一日作さざれば、一日食わず」という言葉が生まれ、天下にひろく知られるようになったのであった。」
というものです。
小川先生は「百丈自身が「一日作さざれば、一日食わず!」と高らかに宣言し、抗議のために断固食事を拒否した、という話ではありません。
農具を探すうちに食事を摂るのを忘れてしまい、そこからこの言葉が生まれて、人口に膾炙するようになった、という書き方です。」
と書かれていますが、このあたりは大事なところであります。
まして況んや、人に対してはたらかない者は食べるなという話ではありません。
私は特に百丈禅師の「吾れに徳無し、争か合に人を労すべけん」という言葉に胸打たれます。
私には徳がないのにどうして人さまにはたらいてもらえようかという慚愧の思いであります。
百丈禅師ほどのお方でも「吾に徳無し」と仰せになるのですから、私などには徳のかけらもあろうはずもございません。
せめて毎日何かしらのお仕事をさせてもらうのが有り難いのであります。
百丈禅師のご命日に一日作さざれば、一日食らわずという言葉を思います。
横田南嶺