我は浩然を行う
洪川老師は、文化十三年(一八一六)のお生まれで、明治二十五年(一八九二)にお亡くなりになっています。
釈宗演老師のお師匠さんであり、鈴木大拙先生が円覚寺ではじめて師事された老師であります。
洪川老師のことを思うと、なんといっても鈴木大拙先生の『激動期明治の高僧 今北洪川』にある一文を思い起こします。
少々長いのですが、紹介します。
これは洪川老師のお亡くなりになる前の年ですから、大拙先生はまだ二十一歳の頃です。
「老師は堂々たる体躯の持ち主であった。
自分は何を言って、老師は何と言われたか、今全く忘れているのだが、ただ一事あって記憶に残る。
それは老師が自分の生国を尋ねられて加賀の金沢だと答えたとき、老師は『北国のものは根気がよい』といわれた。
『大いにやれ』とはげまされたか、どうかは今覚えていない。
そのとき老師の人格からどんな印象をうけたか、それも今覚えが無い。
今覚えているのはいつかの朝、参禅(注・この場合は老師と問答することです)というものをやったとき、老師は隠寮の妙香池に臨んでいる縁側で粗末な机に向かわれて簡素な椅子に腰掛けて今や朝餉をおあがりになるところであった。
それが簡素きわまるもの、自ら土鍋のお粥をよそってお椀に移し、何か香のものでもあったか、それは覚えていないが、とにかく土鍋だけはあった。
そしていかにも無造作に、その机の向こう側にあった椅子を指して、それに坐れと言われた。
そのときの問答も、また今全く記憶せぬ。
ただ老師の風貌のいかにも飾り気無く、いかにも誠実そのもののようなのが、深くわが心に銘じたのである。
ある点では西田幾多郎君に似通うところがあるように、今考える。虎頭巌(注・隠寮は妙香池の畔、虎頭巌の上にあって老樹で掩われている)で白衣の老僧が長方形の白木造りの机に向かって、夏の朝早く土鍋から手盛りのお粥を啜る─禅僧とはこんなものかと、そのとき受けた印象、深く胸に潜んで、今に忘れられない」
という文章です。
洪川老師は、江戸時代の終わり頃、学者の家に生まれました。
大阪に今でも福島という地名がありますが、その福島のお生まれです。
洪川老師は幼時から「児たりし時夏はだぬがず、冬炉せず。終日父の書斎に侍して童戯に交わらず」と年譜にありますように、子供の頃から、夏だからといって薄着をせず、冬だからといって囲炉裏で手を焙ったりせずに、いつも儒学者のお父さんの書斎で一緒に勉強をしていて、他の子供たちと遊んだりはしなかったというのです。
七歳から漢文を始めて八歳、九歳の頃には四書五経をそらんじていたというのです。
天保五(一八三四)年、十九歳のときに、大阪の中之洲(今の中之島)に儒教の私塾を開きました。
通ってくる生徒はいつも三十人を下ることがなかったといいます。
江戸時代ですから大阪に藩邸を構える諸大名の子弟たちに教えていたわけです。
「昼講夜講孜々として研究すること凡そ五年」と年譜ありますから、五年間もっぱら漢籍を講じていたわけです。
ある日の講義で『孟子』の「浩然の気」について書かれた章に差し掛かったとき、突然、洪川老師は「孟子は浩然を説く、我は浩然を行う」と声を大にして言いました。
生徒たちは驚きました。
浩然の気というのは、水が滔々として溢れているように、広く豊かなゆったりと天地を包むような大きな気のことです。
洪川老師はそういう気を体得してみたいと、突然思ったのでした。
これがきっかけとなって、「脱俗の志を抱く」、出家したいと願うようになりました。
そうして、京都の相国寺で大拙老師(一七九八~一八五六)について参禅されました。
その頃の修行の様子を『禅海一瀾』には次のように書かれています。
盛永宗興老師の現代語訳を引用します。
「身を擲って修行に励み、身につけるものは一枚の衣と一つの鉢、口にするものは粗末な食事、身に触れるものは、師の熱喝、瞋拳。胸中時に恨み悩み、あるいはもだえ苦しんだが、愈々倍々奮い立って、志が衰えるという事はなかった。
苦修が久しく続いたある夜、禅定に入って急に自己を忘れ、一切何物も無い絶妙の境地に入った。
あたかも死に切った如く、我も物も没し去って、ただ体内の気が全世界に充ち充ちて無限の光を放つように思われた。
寸時にして我に帰れば、視るところ聴くところ言動すべてガラリといつもとは異なっていた。
今まで学んで、知識として知っているこの世の至理妙義といわれるものが、一つ一つの事物の上に明らかにあらわれているのが分かった。
歓喜の余り、思わず舞い踊る心地であった。
そして息もつかずに叫び続けた。「百万の経典も太陽の下の灯のようだ。何と素晴らしいとか。何と素晴らしいことか」と。」
このような体験をなされたのでした。
洪川老師二十六歳の時であります。
そこから更に大拙老師について修行し、その後備前曹源寺の儀山老師について修行を仕上げられました。
四十四歳で岩国の永興寺にお入りになりました。
円覚寺に住されたのは、六十歳でありました。
それからは、僧堂を復興され、多くの人材を育て、更には一般の方にも門戸を開いて参禅を許されました。
明治時代を代表する禅僧となられたのであります。
明治二十五年一月十六日、今私が住まわせてもらっている円覚寺僧堂の隠寮でお倒れになって遷化されました。
そのとき大拙先生は、隠寮に居合わせていたのでした。
『激動期明治の高僧 今北洪川』には次のように書かれています。
「不思議にも、自分は老師の御遷化のときに、ちょうど隠寮に居合わせた。
一月十六日の朝、そのときの侍者であった加藤東幸師と何か話していたとき、奥の三畳――これは老師の居間、机のほかに何か箪笥のようなものもあって、狭くるしい部屋――そこから、何か物の倒れるような音がした。
東幸師は、「そりゃ」と言って奥へ飛んで行った。
この音は、老師が便所から帰られてその三畳へおはいりになろうとして、倒れられたときのものであった。
そのとき箪笥の角かで額の一方を打たれたと見え、少し疵があった。
老師はそれきりこの世と絶縁せられたのである。
侍者はさっそく門前のお医者さんの小林玄梯を呼んだ。
座敷に床を敷いて老師をお寝かし申し上げ、 玄梯さんの診察を乞うたが、彼は脈をとり、胸へ聴診器をあてて見たが、「もうこときれた」と宣告した。」
と書かれています。
若き日に「浩然を行ぜん」と志して、文字通り浩然を行じられたご生涯でありました。
そんな洪川老師をしのぶ一日であります。
横田南嶺