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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.01.12
今日の言葉

無事の人

ただいま私どもが読んでいる『臨済録』は、上堂から始まっています。

その上堂のあとに示衆というお説法がございます。

示衆のはじめに、臨済禅師の大事な教えが込められています。

漢文を読みたいところですが、旧版の岩波文庫『臨済録』にある朝比奈宗源老師の現代語訳を参照しましょう。

「今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず真正の見解を求めることが肝要である。

もし真正の見解が手に入れば、もはや生死に迷うこともなく、死ぬも生きるも自由である。

偉そうにする気などなくとも、自然にすべてが尊くなる。

修行者よ、古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自由の境地に導く実力があった。

わしがお前たちに心得てもらいたいところも、ただ他人の言葉や外境に惑わされないようにということだ。

平常のそのままでよいのだ、自己の思うようにせよ、決してためらうな。

このごろの修行者たちが仏法を会得できない病因がどこにあるかと言えば、信じきれない処にある。

お前たちは信じきれないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、万境のために自己を見失って自由になれない。

お前たちがもし外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。

お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。

お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。

ただ、お前たちはこれを信じ切れないために外に向って求める、(そんなことをして) たとえ求め得たとしても、それは文字言句の概念で、活きた祖師の生命ではない。取り違えてはいけない。

お前たち、今ここで、して取れないなら永遠に迷いの世界に輪廻して、愛欲にひかれて畜生道に落ち、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。

お前たち、わしの見解からすれば、この自己と釈迦と別ではない。

現在、日常のはたらきに何が欠けているか。

六根を通じての自由な働きは、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。

もし、よくこのように徹底することが出来ればこれこそ一生大安心の出来た目出度い人である。」

というのであります。

このなかで、「古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自由の境地に導く実力があった」というところは、「古よりの先徳の如きは、皆人を出す底の路有り」が原文であります。

「人を出す底の路」というのが、ただいまの研究では、「人よりすぐれた」「並外れた」という意味であるとなされています。

小川隆先生の『『臨済録』禅の語録のことばと思想』には、

「わが道の先人たちには、みな余人に勝るすぐれた路があって」と訳されています。

また最後のところは、「一生無事の人」であって、朝比奈老師は、「一生大安心の出来た目出度い人」と訳されています。

ただいまの岩波文庫『臨済録』では、旧版の訳をかなり踏襲していて「一生大安楽の人」と訳されています。

小川先生は、この示衆の最後のところを

「諸君、わしの見処にもとづくならば、おのおのが釈迦と何の別もない。

今この場での様々なはたらき、そこに何の不足があろう。

六すじの霊妙な光は、一度として途切れたことが無い。

そこのところが見て取れたなら、まさに一生「無事」の人に外ならないのである。」

と訳してくださっています。

そして更に小川先生は、この示衆の一段を次のように要約してくれています。

引用しますと、

「これをさらに要約すれば、こうなろう

(一)「人の惑わし」を受けるな、

(二)己れの外に「馳求」するな、

(三)自分自身を信じ切れ、

(四)その自分自身は「祖仏」と別なく、「釈迦」と別なきものである、

(五)といっても、何も特別のものではない、それは「祇に你面前に聴法せる底(もの)」、すなわち現にこの場でこの説法を聴いている、汝その人のことに外ならない、

(六)その汝の身には途切れることなくはたらきつづける「六道の神光」が具わっている、

(七)それを如実に看て取る者が、つまり一生「無事」の人なのである。」

ということなのです。

こうして読み込むと実にわかりやすいものであります。

六道の神光がこの身に途切れることなくはたらき続けていることを看てとることができれば無事の人なのです。

では「六道の神光」とは何でしょうか。

「六すじの霊妙な光」なのですが、それは決して

「字面から想像されるような、超常的な霊力・神通力の類」ではないと小川先生は説いてくださっています。

そのような超常的なものなら「「平常」「無事」の説とは甚だしく違背することになろう」というのです。

小川先生は、更に福州大安(西院大安)禅師の言葉を引用しています。

本分は省略しますが、小川先生は、

「「六門」から昼夜を分かたず放たれる光、それが六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通して常にはたらく身心の感覚作用の譬喩である」と説かれています。

「自身に具わった感官のはたらきを光にたとえたものに外ならない」というのです。

『臨済録』には、

「問い、「真実の仏、真実の法、真実の道とはどんなものですか、どうかお示し下さい。」

師は言った、「仏とは心の清浄さがそれ。法とは心の輝きがそれ。道とは自在に照らす清浄光に満ちている一切処である。この三はそのまま一である。それらはみな名だけあって、実体が有るわけではない。

まともな修行者であれば、一念一念がとぎれることはない。

〔初祖〕達磨大師がはるばるインドからやって来たのは、人に惑わされぬこういう正念の人を求めんがためこそであった。

そして後に二祖と出会った。

かれは一言のもとに、それまでの修行が空しい努力だったことを悟ったのであった。

わしの今の見地は、祖仏と全く同じだ。」

と説かれているのであります。

安積得也さんの詩に

しあわせもの僕

この眼があいて
自然が見える
しあわせものと僕を思う
この耳が澄んで
小鳥が聞こえる
しあわせものと僕を思う
この傷がなおって
このくわがにぎれる
しあわせものと僕を思う

というのがありますが、こんな素晴らしいはたらきをしているのがお互いなのであります。

そのことに気がついて外に求めることがなくなれば「無事の人」なのであります。

 
横田南嶺

無事の人

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