ぴちぴちと躍動しているもの
花園大学の総長に就任して丸六年が経ちました。
総長の任期は、十一月三十日まででした。
任期は二年で、再任を妨げないことになっています。
それで、気がついてみれば早くも三期を終えていたことになります。
第四期目の勤めるようにとのことで、花園学園の理事長であり、妙心寺派宗務総長から、ご丁寧に辞令を頂戴したのでした。
そのあとも京都に来たついでご挨拶したいという方が相次いで、そのあと授業に臨みました。
授業は「禅とこころ」という講座で、毎回いろんな講師がお話をされています。
私は前期三回、後期三回出講しているのです。
かつては多くの学生が出席して、更に公開講座で一般の方も大勢だったのですが、コロナ禍以来、かなり人数を制限しています。
学生は仏教学部ではない方がほとんどなので、『臨済録』の漢文の原典を使わずに、岩波文庫『臨済録』の入矢義高先生の現代語訳を参照して講義をするようにしています。
毎回、ほんの少しの禅語を取り上げて話をするようにしています。
全体の講義を通して一つの禅語でも心に残ってもらえれば嬉しいものです。
今回は、ひとつの禅語に絞りました。
それは「活潑潑地」です。
『広辞苑』にも「極めて勢いのよいさま。気力がみちみちて活動してやまぬさま。」と解説されている言葉です。
今まで紹介してきた禅語を並べてみると、
まずは「回光返照」、外にばかり向いているのではなく、自らの光を内に差し向けてみることです。
そうすると「無事」、もう外に求めることをしなくなります。
それは「無位の真人」に目覚めるからです。素晴らしい自己に目覚めるから、もう外に求める必要はなくなるのです。
そうすれば「随処に主と作れば、立処皆真なり」で、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となることができます。
しかもそのはたらきというのは「活潑潑地」なのです。生き生きはたらくことが出来るようになるのです。
今回は十二月ということもあって、臘八の修行から話を始めました。
お釈迦様の難行苦行にあやかってほんの一週間ばかりですが、坐禅修行に励みます。
お釈迦様の悟りとはなにかというと、玉城康四郎先生がよく引用される、仏陀の目覚めの偈を紹介しました。
夜明けの詩。
「実にダンマが、熱心に冥想しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を輝かすがごとくである」
という偈であります。
玉城先生は、その著『悟りと解脱』で、「ダンマ」とは「まったく形のない、いのちの中のいのち、いわば純粋生命とでもいう外はない。寿そのものである。」と解説されています。
この「ダンマが顕わになる」ということから、『臨済録』の、
「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。
眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。」
という言葉を引用しました。
「心というもの」は、原文では「心法」となっているのです。
実に「ダンマ」が、純粋ないのちそのものが、この身体に顕わになっているのです。
その様子が「眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったり」しているのであり、それが実に「活潑潑地」にはたらいているのです。
『臨済録』では、
「君たちが、衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いている(君たち)その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していることを見て取ることだ。
その人が発動するさまざまの方便はすべて、はたらきとしての跡かたを一切とどめぬ。だから追いかければ追いかけるほど遠ざかり求めれば求めるほど逸れていく。ここが摩訶不思議というものだ。」
と説かれています。
生死の問題は、一大事であります。
死をどのように受け入れて生きるのかが大きな問題です。
臨済禅師は、「衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら」と説いています。
一日はたらいて、着ていた服をサッと脱ぐように、死に赴くことができるようになるというのです。
お風呂に入る時などは、サッと服を脱いでいます。
執着のなにもないのです。
それには「今そこで説法を聴いている」もの自身を明らかにすることなのです。
何が聞いてるのでしょうか。
臨済禅師は、「君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。」
と問い掛けます。
何が聴いているのか、聴いているのは何でしょうか。
それは、いのちあればこそなのです。
まさしく仏陀の説かれる「ダンマ」であり、純粋ないのちそのものであります。
そのいのちがが「今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している」のであります。
それこそがこの話を聴いているのであります。
更に臨済禅師は「こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる」というのです。
いのちは途切れることなく、ぴちぴちとはたらき遠しなのです。
寝ている時は、お休みしているのかというと、そんなことはありません。
眠るというすばらしいはたらきをしているのです。
ただ臨済禅師「ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる」と警告を発しています。
頭であれこれ考えるともうすれ違ってしまうのです。
今こうして話を聴いているのは、すでにぴちぴちと純粋なるいのちが躍動しているのであります。
横田南嶺