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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.12.27
今日の言葉

臨済禅師の最期

先日花園大学で『臨済録』について講義をした折、最後に臨済禅師の末期について話をしました。

この臨済禅師の最期については、いろんな問題があって、取り上げようかどうか迷ったのですが、一応取り上げてみました。

岩波文庫『臨済録』211ページにある現代語訳を参照しましょう。

「師は臨終の時、威儀を正して坐って言われた、

「わしが亡くなったあと、わが正法眼蔵を滅ぼしてはならぬぞ。」

三聖が進み出て言った、「どうして我が師の正法眼蔵を滅ぼしたり致しましょう。」

師「もしこのあと、たれかがそなたに問うたならば、どう答えるか。」

そこで三聖は一喝した。

師は、「あに図らんや、わが正法眼蔵はこの盲の驢馬のところで滅びてしまおうとは」と言い終わると、 端然として亡くなられた。」

というものです。

正法眼蔵とは「釈尊から伝えられた仏法の真髄」と註釈に書かれています。

山田無文老師は、禅文化研究所発行の『臨済録』に、

「「誰か知らん、吾が正法眼蔵、這の瞎驢辺に向かって滅却することを」。これは、三聖を叱っておられるようであるが、肚の中では、そうだ、その勢いじゃ、その力ならわが仏法は滅びないであろうと、三聖を許されているのである。

しかしまた、そういう「臨済の一喝」の真似をしておるだけでは、わが正法は滅びてしまうぞと、後々の者にしっかりと釘をさしておられるのだと思うのである。」
と提唱されています。

ほかに大森曹玄老師は、春秋社の『臨済録講話』では、

「「誰か知らん、我が正法眼蔵、這の膳驢辺に滅却することを。」
といって、端然として寂を示した。

言葉の表面の意味は、わしの禅もこのめくら馬の代になって、すっかり跡形もなくなってしまうであろう、というのであるが、真意は決してそんなことではない。

大燈国師も「滅の一字、高く眼をつけよ、若しまた会せずんば臨済宗風、豈に今日に至らんや。」と評している。

何も見えないめくら馬の代になって、正法眼蔵がなくなってしまうというのだから、この言葉は無形、無相、無住、無依、 一塵一法も立しない臨済禅の絶対無的、真空妙用的性格をまことによく現している。

この一語は、三聖への印可の言葉だといわれる。」

と説かれています。

これはまさしく「抑下の托上」といって、表面はけなしているようで、内心大いに肯っているのだと説かれています。

『禅学大辞典』には「語抑下意托上」として解説されています。

解説には「言語文字の上からは貶抑しながらも、真意は逆にこれをほめ上げていることをいう。

たとえば、臨済が入滅に臨んで、その嗣、三聖慧然に「誰知吾正法眼藏向這驢邊滅却」〔臨濟録、行録〕と言ったのはこれである。」

と書かれているのです。

しかしながら、岩波文庫の『臨済録』の解説の終わりに、入矢義高先生は次のように書かれています。

「また臨終に際しての三聖への一言「あに図らんや、わが正法眼蔵はこの盲の驢馬のところで滅びてしまおうとは」(二一一頁)は、平心に読めば、まさに落胆の歎息であるが、しかし宋代ではほとんど例外なくこれを高い趣旨に取って、三聖に法を託したものとさえする。

しかもこの記録は古版の『景徳伝灯録』には見えず、『天聖広灯録』(一〇三六年)になって始めて現れる。

この「遺言」を高次の意味に解するためには、しかし多くの言辞を費さねばならず、たとい宋代における臨済禅展開の歴史を視野に入れても、いささか強弁に傾くことを免れ得ない。

注を加えなかったゆえんである。

現代のわれわれは、『臨済録』をもっと率直かつ自由に読んでよい。

「もっと」とは、「この改版での扱いよりももっと」という意味でもある。

臨済その人がまさに率直な人格だったのだし、「自由」もこの人の愛用語だったのである。」

というものです。

柳田聖山先生の『臨済録』(大蔵出版仏典講座30)には、

「この一段は、臨済瞎驢の公案として有名で、臨済禅の伝灯相承をなすものとされ、『碧巌録』四十九則の評唱や、『従容録』十三則などに詳しく論ぜられている。

ただし、景徳元年(一〇〇四)成立の『伝灯録』の初版に見えず、景祐三年(一〇三六)にできた『天聖広灯録』十にはじめて登場する点を注目しなければならぬ。」

と書かれています。

そして「宋版と元版の『伝灯録』では、この一段に代って臨済録の示寂を次のように記している。師、唐の咸通七年丙戌四月十日、将に滅を示さんとし、伝法偈を説いて曰く、」として、そのあと偈が書かれています。

正法眼蔵についての問答は書かれていないのです。

柳田先生は、
「偉人の最後は寂しい。

親鸞は「弟子一人ももたず」といった。

生涯を一匹狼として生きた臨済義玄は、どこまでも自ら孤独に徹せねばならなかった。

かれはそれを覚悟していたはずである。

後に形成された臨済宗は、あくまで後人のものである。本書、宗演が重刊した『臨済録』は、そうした臨済宗の聖典としての修正を受けている。」

と指摘されています。

どうもこの末期の問答は、後になって付け加えられたものだと言えましょう。

もっとも、口承ということもありますので、口伝で伝えられてきたものが、そこで初めて言葉として書き残されたということも否定はできません。

この臨済禅師の末期をどう見るのか、問題となるのであります。

臨済禅師は、

「法性の仏身とか、法性の仏国土と言っても、それは明らかにちらつきなのだ。

諸君、君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない。それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。」

と説かれています。

正法眼蔵だ、瞎驢辺だといってもそれはあくまでも、臨済禅師には「ちらつき」にしか過ぎないのです。

「下っ腹から空気を振動させ、歯をかち合わせて言葉となったもので、こんなものに実体のないのは明らかだ。」と臨済禅師が説かれている通りなのです。

それよりも「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらく」端的を自覚することであります。

実に正法眼蔵は、今もこうして目でものを見たり、耳で音を聞いたり、大いに生きてはたらいていますという自信を持っておいてほしいものです。

そう言って講義を終えたのでした。

 
横田南嶺

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