無字の修行
これは、唐代の禅僧趙州和尚の公案なのであります。
もともとは、趙州和尚に僧が「犬にも仏性が有りますか」と質問したのでした。
それに対して趙州和尚は「無」と答えたのでした。
僧は更に「上は諸佛から下は蟻に至るまで、すべてに仏性が有ると説かれているのに、どうして犬には仏性が無いのですか」と問いました。
それに対して趙州和尚は「かれには業識性が有るからだ。」と答えられた問答なのです。
もともとは、このような会話だったのですが、そこから趙州が無と答えたというところだけをとりあげて、修行僧に工夫させるようになっていったのでした。
これが看話禅などと言われる修行であります。
唐の時代の素晴らしい禅僧の心境に、自分たちもどうしたら達することができるか、いろんな方法を模索したのだと思います。
そんな課程で、宋代の禅僧五祖法演禅師が、この無字を取り上げるようになっていったのでした。
五祖法演禅師は、この趙州和尚と僧の問答をとりあげておいて
「老僧尋常只無字を挙して便ち休す。
爾若し這の一箇の字を透得すれば、天下の人爾をいかんともせじ。
爾諸人作麼生か透らん。
還って透得徹底有りや。
有れば出で来たって道え看ん。」
と説いています。
訳しますと、
「わたしは普段この「無」の字を取り上げて、そこでもうやめにしている。
あなた方がもしこの「無」の字を通り抜けることができたなら、どんな人もあなた方に手出しすることはできない。
あなた方はどう通り抜けるというのか。
通り抜けられる者はいるか。いるなら出て来て言ってみよ」
というのであります。
五祖法演禅師が白雲山に住していた時には、ある和尚に手紙を書いて、
「この夏、寺の田で米一粒も收穫できなかったことが心配なのではない。
心配なのは、この夏安居で一人として、狗子無佛性の話を透過できた者がいなかったことです。」
と嘆いているのです。
五祖の弟子が圜悟禅師であり、その弟子が大慧禅師です。
大慧禅師が、当時の士大夫に指導する時、無字の修行を用いたのでした。
「僧、趙州に問う、狗子に還って佛性有りや也た無しや。州云く無」と、
此の一字子、乃ち是れ許多の惡知惡覺を摧く底の器仗也」と説いています。
この無の一字が、あらゆる悪知悪覚を破碎する武器だというのです。
そこで「但だ十二時中に向かって、四威儀内、時時に提撕して時時に挙覚せよ」「狗子に還って佛性有り也無。云く無」
一日十二時中、行住坐臥、つねにこの無字を提起し、つねに覺醒せよと説いています。
更に無門慧開禅師が、この無字を工夫すること六年かかっています。
そんな自身の体験からか、『無門關』の第一則に取り上げられました。
『無門関』に、「禅に参じるには歴代の祖師の関門を通らなければならない。
妙なる悟りのためには、心の分別の流れを断ち切る必要がある。
祖師の関を通らず心の分別の流れを断たないのであれば、すべて草木にとりすがる幽霊のようなものだ。」
と説かれています。
また「その関門を突破しようとする者がいるのではないか。三百六十の骨と八万四千の毛孔を挙げて、全身まるごと疑いのかたまりとなり、ただひとつの無字に参じて、昼となく夜となくこれを引っさげよ。」
とも説かれているほどであります。
全身全霊で無字になりきるという修行ができあがってまいりました。
そのようにして無字の修行が、禅の修行において特別重視されるようになってきたのです。
南宋の時代に、そんな無字の修行をなされたのが、円覚寺の開山無学祖元禅師でもあります。
仏光国師の語録には、その詳細が説かれています。
まだ鎌倉時代に禅が日本に伝わって間もない頃だったので、無字の修行などについて、日本の修行僧がまだよく分かっていないと感じられたから、丁寧にご自身の体験を語られているのであります。
一部を意訳します。
「わたしは十四歳で徑山に上り、十七歳で心を発して狗子無佛性の話に參じました。
はじめは一年でなんとかなると思ったのでしたが、見解を得ることができませんでした。
さらに一年工夫しましたが、得るところはありませんでした。
さらに三年続けましたものの、手がかりは得られませんでした。
五六年めになって、手がかりは得られなかったのですが、この無字の取り組みが熟して、夢の中にも無字が現われ、世界全体がただ一箇の無字となっていったのでした。」
原文には、「遍天遍地只是の一箇の無字」とあります。
更にそのころある老僧から、「この無字を手放すが良い」と言われました。
言われた通り手放してみたのですが、無字は、ずっと私についてまわって離れる事がありませんでした。
さらに一年ほど工夫していると、無字が見えなくなり、自分の身体も見えなくなりました。
そんな状態で半年が過ぎると、心が身体から離れてゆきました。
鳥が籠から出て空を飛ぶように、どこかへ飛んでゆくのです。
坐っていると一日一夜あっという間で、辛さや苦しさを感じることがなくなりました。
あるとき坐り続けていると、心と体が分離して心が戻ってこなくなりました。
まわりの者は、私のことを、死んでしまったと思ったようです。
そんなときに、ある老僧が、これは凍えて息ができなくなっているのだから、あたたかい蒲団でも掛けてあたためてあげればいいと教えてくれました。
その通りにすると、ようやく意識を取り戻したのでした。
まわりの者に聞くと、一昼夜意識を失っていたのでした。
それからというもの、ひたすら坐禅に打ち込み、夜もほとんど寢なかったのでした。
ある晩、三更まで坐って、眼を開けると、すっきり醒めた気分で坐っていました。
明け方の開板の音を聞いて、本來の面目が木板の一槌で目の前に現れたのでした。
すぐさま坐禅の台から跳び下り、お月さまの下に走り出して、含暉亭から空を見上げて、笑いがこみあげてきました。
「大いなるかな、法身、こんなに広大だったとは」と。
それからというもの、うれしくてたまらず、僧堂でじっと坐っていられなくなって、ただがむしゃらに山を歩きまわっていました。
という体験であります。
この体験を漢詩に託して仏鑑禅師に示されました。
褒められるかと思いきや、仏鑑禅師は、その漢詩を一瞥して捨ててしまったのでした。
無字の修行による、こういう体験は、修行のはじまりにすぎないのであります。
ここから更に無学祖元禅師は、いろんな禅僧を尋ねては、修行を深めてゆくのであります。
仏光国師もこの修行の道は一遍に片づくものではなく、いろんな師にめぐり会いながら、深めてゆくものだと説かれています。
ともあれ、まずこの無字の修行は、禅僧としての基礎、土台を作るものであります。
横田南嶺