ぞうきんみたいな
実際には国土交通省の「道路緊急ダイヤル」「#9910」というのがあるそうなのです。
しかしそれだけでなく、恵俊さんは、
「ただ、連絡する前に、まずすべきことがあると私は思うのです」と言います。
「その動物は生きているときには、「かわいい、かわいい」と言われていたかもしれません。
それが死んだとたん、気持ち悪がられる存在となってしまうのは、かわいそうです。
だからまず、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と言いましょう。
そうすれば自分の心も穏やかになりますし、その動物自身も穏やかな世界に旅立てます。」
と説いているのであります。
このところを読んでいて、私は学生時代を思い出していました。
ご縁があって茨城県にある筑波大学で四年間お世話になったのでした。
筑波大学は、もと東京教育大学であります。
一九七三年昭和四十八年に今の筑波の地に開学されたのでした。
私は、筑波に移ってから十年経つ昭和五十八年に入学したのでした。
今はつくば市となっていますが、私が通っていた頃は「桜村」でありました。
大学の校歌に、
常陸野の 原野を拓き 真白なる 塔そびえたり
混沌の 時代破りて 清新の 力生(あ)れたり
とありますように、常陸野の原野を伐り拓いて、作られた大学なのです。
十八歳ではじめてふるさとを遠く離れて、筑波に着きました。
衝撃を受けたことはいろいろありますが、原野に広い道路が出来ているので、動物の死骸が多いのでした。
はじめて動物の死骸を見つけた時には、驚いて、すぐにお経をあげながら、近くの土に返してあげたことを覚えています。
しかし、そんな動物を見ることは、次から次へとあるのです。
とてもいちいちお経をあげて葬っていたら、何もできなくなります。
かわいそうに、申し訳ないと思いながら、せめて短いお経を唱えて通り過ぎるしかなくなっていました。
広い原野に突然できた道路、地元の人たちには詳しい説明もあったでしょうが、動物たちは知るよしもなかったことでしょう。
広い綺麗で大きな大学が出来る背景には、こんな動物たちの死があるのだとしみじみと思ったものでした。
現代社会の矛盾、なんとも表現しようのない違和感、そんなものを感じていました。
『六歳の俳句~孫娘とじっちゃんの十七音日記』という本があることを知りました。
題の通り、まだ六歳の少女の俳句が書かれている本です。
朝日俳壇に六歳で初入選して、小学四年まで一九句も掲載されたというのです。
そのかとうゆみさんが、初めて入選した句が、
「こくどうにぞうきんたいな たぬきかな」であります。
令和三年一月二十四日・日曜日の新聞の俳句欄に、このゆみちゃんの俳句が選ばれたそうなのです。
選者の高山れおな先生の評には、
「交通事故死した狸。 比喩が率直的確。作者は七歳」と書かれています。
いそいでる わたくしのくつで 虫がしぬ
という句もあります。
もがいてる みみずを そっとおく日かげ
という句もあるのです。
しにかけた みみずに かかれ春の雨
こんな俳句を読んでいると、小さな虫にも愛のまなざしを注いでいる姿が思い浮かびます。
坂村真民先生が、
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
と詠ってくださっています。
ブッダの教えの基本は不殺生なのです。
「ことさらに殺し誤って殺す有情の命」
と覚鑁聖人が詠っていますように、知らないうちに命を殺めてしまっているのでお互いなのです。
常に足元に気をつけて、足音を立てないようにと修行道場ではよく言われるのですが、やはり足元の虫を殺さないように気をつけることを教えているのだと思います。
仏教では「安居」といって「修行者たちが一定期間一カ所に集団生活し、外出を避けて修行に専念する」のは、「インドでは春から夏にかけて約三カ月続く雨季の間は、外出が不便であり、またこの期間外出すると草木の若芽を踏んだり、昆虫類を殺傷することが多いので、この制度が始まったとされている。」と『仏教辞典』(岩波書店)にある通りなのです。
またもともとお釈迦様の教えでは、出家した僧は、田畑を耕してはいけないとされていたのも、畑を耕したりすると、知らぬうちに虫を殺してしまったりしてしまうからなのでした。
中国に仏教が伝わって、特に禅宗教団では、やむを得ぬ事情からか、畑を耕すようになってゆきました。
またそんな労働に積極的な意味を見出したのも禅宗の特徴といえるでしょう。
しかし、殺生してしまうことは避けられないのです。
そこで過って殺めてしまったときには、せめて短いお経か、御念仏を唱えて土に返してあげるようにしたいものです。
寺には虫が多いので、夏の間は、いつも気をつけます。
戸の開け閉めのときにも虫を殺めてしまうこともあるので、虫がいないか確認してから開けたり閉めたりしています。
冬場になると、虫がいなくなるので、ホッとするのであります。
そうかといって少し気をつけるくらいでいいというものではありません。
まず私たちの暮らしが成り立つ土台には、「ぞうきんみたいな」死が量り知れないほどあったことを自覚すべきであります。
そうなりますと、親鸞聖人が「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」と仰せになったことも味わえるのであります。
横田南嶺