苦行の末の悟り
それが十二月八日だと説かれています。
その苦行の様子は、すさまじいものであります。
大法輪閣の『仏教聖典』から一部を引用します。
「その後六年の間、太子は日に一食をとり、また半月一月に一食をとり、足をくみ、威儀を正して坐り、雨風 電にもめげず、唯黙然として、恐れ戦き給うことはなかった。
或る時は歯と歯と噛み合わせ上顎に舌を引き付けて心を制え、恰かも力の強い人に押し伏せられたように両脇から汗を流されたが、精進の心は退がず、正しい念は乱れないで、却って気に満ちてその大きな苦に勇み立たれた。
また或る時は無息の禅定を修めて、口と鼻との呼吸を止められると、内にこもった息は、凄まじい音をして耳から流れ出た。
ちょうどそれは、鍛冶屋の鞴のように凄まじい音であった。
尚進んで耳の呼吸までを止められると、激しい風気(いき)が頭の頂を衝き上げるので、鋭い刃に衝刺されるようであった。
また或る時は、内の風気が陶器の破片で刺すように烈しい頭痛を起こし、また或る時は鋭い庖刀で刳るように腹を刺して、燃ゆる炭火に身を投げ入れるような烈しい熱を起こした。
しかも太子の心は、少しも退ぎ給うことはなかった。
これを見て、或る者は喬答摩は死んだと思い、或る者はやがて死ぬであろうと思い、或る者は覚をひらいて聖者の生活に入られたと考えた。
太子は、更に進んで食を断とうと思い立たれた。驚いた神神は「断食をなされてはいかぬ、もし食を断たれるならば、私たちは神神の漿水を毛孔へ注ぎいれて聖者の生命を支えまいらせよう」と叫んだ。
しかし太子は、断然としてこれを斥けたもうた。
太子は今や僅かの豆小豆の類を取り給うたので、身体が見る見る痩せてきた。
足は枯葦のよう、臀は駱駝の背のよう、そして背骨は編んだ縄のように顕れ、肋骨は腐った古家の垂木のように突きいで、頭の皮膚は熟しきらない瓢箪が陽に晒されたように皺んで来、ただ瞳のみは落窪んで深い井戸に宿った星のように炯(かがや)いて居る。
腹の皮をさすれば背骨を摑み、背骨をさすれば腹の皮が掴める。
立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛は、はらはらと抜け落ちる。
太子は思い給うた。 「過ぎし世のいかなる出家も行者も、または今の世、来たるべき世の如何なる出家も行者も、これより上の烈しい苦しみを受けたものはないであろう」。」
というほどの苦行でありました。
苦行では悟れないと気がついたお釈迦様は、スジャーターの供養を受けて禅定に入ったのでした。
その結果悟りを開かれたのでした。
中村元先生の『ゴータマ・ブッダ1』からその様子が書かれた『ウダーナ』の訳を引用します。
「『そのときブッダなる世尊は、ウルヴェーラー村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹のもとにおられた。はじめてさとりを開いておられたのである。
そのとき世尊は菩提樹のもとにおいて、七日のあいだずっと足を組んだままで、解脱の楽しみを享けつつ、坐しておられた。
ときに世尊は、その夜の最初の部分において縁起の[理法]を順逆の順序に従ってよく考えられた。
その七日が過ぎてのちにその瞑想から出て、その夜の最初の部分において縁起(の理法)を順の順序に従ってよく考えられた」というのです。
そして十二因縁を観察された様子が説かれています。
「そこで世尊はこの意義を知って、そのとき次の詠嘆の詩を唱えられた。
努力して思念しているバラモンに、
もろもろの理法が現われるならば、
かれの疑惑はすべて消滅する。
原因との関係をはっきりさせた縁起の理法をはっきりと知っているのであるから。」
という風に説かれています。
偈は更に二つ続きます。
「努力し思念しているバラモンに、
もろもろの理法が現われるならば、
かれの疑惑はすべて消滅する。
もろもろの〈縁〉の消滅をはっきりと知ったのであるから。
更に縁起の理法を順逆の順序に従ってよく考えられ、最後の偈が説かれています。
努力して思念しているバラモンに
もろもろの理法が現われるならば、
かれは悪魔の軍勢を粉砕しているのだ。
あたかも太陽が天空を輝かすようなものである。」
と説かれているのであります。
ここで訳されている「理法」とは「ダルマ」「ダンマ」のことです。
「ダンマ」とは何か、玉城康四郎先生は、その著『悟りと解脱』で、
「「ダンマがブッダ自身に顕わになる」ということである。ダンマはパーリ語で、サンスクリット語ではダルマ、漢訳では法である。
しかし、ダンマとは、そういう言葉ではなく、まったく形のない、いのちの中のいのち、いわば純粋生命とでもいう外はない。寿そのものである。」
「ブッダは後に、このダンマを如来とも名づけた。如来は法身である。すなわちダンマを自らの体となすものである。従ってダンマも如来も、形なき寿そのものであり、同じことである。
しかし、如来となると、われわれにいっそう親しく感じられる。
つまりブッダは、ブッダ自身に如来が顕わになって開悟したのである。」
と説いてくださっています。
まったく形のないいのちそのものが、この身体にあらわになったというのが分かりやすい表現であります。
こうなると「ダンマ」とは『臨済録』で説かれている「心法無形(むぎよう)、十方に通貫す」に通じるものでありましょう。
「ダンマがブッダ自身に顕わになる」とは、臨済禅師の説かれる「眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりする」ということにほかならないと思うのです。
この形無きいのち、心に目覚めたのがブッダであります。
横田南嶺