大事因縁のため
洪川老師の語録『蒼龍廣録』巻一にある「臘八摂心示衆」という文章です。
そのはじめに洪川老師は、「法華経に曰く、諸仏世尊は唯、一大事因縁を以ての故に、世に出現す」と示されています。
『法華経』には、
「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。」
とあります。
訳しますと「もろもろの仏は、すべての人びとが本来そなえている仏の智慧を開かせて、煩悩のけがれをとりさって清浄にするために、この世に出現なされた。
すべての人びとに仏の智慧を示そうとして、この世に出現なされた。
すべての人びとに、仏の智慧を悟らせようとして、この世に出現なされた。
すべての人びとを、仏の智慧の道に導き入れようとして、この世に出現なされた。
舎利弗よ。これを、もろもろの仏が、ただ一大事の因縁があるからこそ、この世に出現されたというのである。」というところです。
『広辞苑』で「一大事」を調べてみると、
「容易ならぬできごと。重大な事態・事件。」という意味が最初にあって、「お家の一大事」という用例があります。
それからもうひとつ
「仏がこの世に出現する目的である一切衆生を救済すること。」という意味も書かれています。
法華経の説かれている一大事とはまさにそのことで、すべての人に仏の智慧を開かせ、仏の智慧を示し、仏の智慧を自覚させ、仏の智慧の道に入らせることなのです。
また『広辞苑』には一大事因縁として、
「仏がこの世に出現する最も大事な理由。一切衆生を救済するという大目的。法華経に説く。」
という意味が書かれているのです。
要するに、一大事とは、一切衆生を救済しようとする心にほかなりません。
そのためにこそ修行をするのであります。
よくライフセーバーの話を譬にしていますが、夏になると海に泳ぎにゆく人たちが大勢います。
動機はさまざまあります。
休みの日に、楽しもう、息抜きをしよう、親睦を深めようなどいろいろあることでしょう。
しかし、海に行って、ライフセーバーになっている人もいます。
その人たちは、自分が楽しむ為ではありません。
海で溺れている人を救うために、海にいるのです。
そして溺れている人を救うには、まず自分自身そうとうの訓練が必要となります。
たいへんな訓練を経て、その間には、楽しみもあまりないでしょうが、人を救うことができるようになれば、人を救う、人の為になることがよろこびとなり楽しみとなるのです。
人々を救いたいと思う心こそが、慈悲の心であり、仏心にほかなりません。
洪川老師は、諸仏はこの一大事因縁の為に世に出現されたのだと説いて、更にこれは仏さまだけの話ではなく、人は誰しも一大事因縁の為に世に生まれたと説かれているのです。
人は、皆この世の人々に悟りの智慧を開かせよう、示そう、悟らせよう、入らせようとして世に生まれたのだというのです。
「張三李四と雖も、皆此の大事因縁の為に世に出生す。
然れども、余つらつら世間の人を見るに、大事因縁の中に住在し而もその大事因縁を知らざる者、滔々として皆是れなり。」
と示されています。
「張三李四」というのは、「そんじよそこらの兄んちゃん」という意味です。
「張」も「李」もありふれた姓のことで、張のところの三男坊と李のところの四男坊ということです。
誰しもが大事因縁のために世に生まれたのです。
しかし人はその大事因縁の中にいながら、その大事因縁を知らないというのです。
それはあたかも魚が水の中にいながら水を知らないのと同じようなものだと洪川老師は説かれています。
庭に花が咲いているのも、あなたに大事因縁を知らせようとしてくれているのでしょう。
風が吹くのも大事因縁を余すところなく示してくれているのでしょう。
この空気に包まれているのも大事因縁を余すこところなく現わしてくれているのです。
しかし、そのことに気がつかないので、一週間の期限をつけて修行をするのだと洪川老師はお示しになっています。
大事因縁という、人々を救おうという慈悲の心は誰しもが生まれながらに持っているのです。
あるときになってから現れるというものではありません。
常にあり続けているのです。
ただそのことが信じ切れていないのです。
そこで臨済禅師は、「如今の学者、得ざることは病甚れの処にか在る。病、不自信の処に在る」と仰せになったのです。
お互い有り難いことに禽獣にならずに人間として生をうけて、仏法に縁があって出家して修行に専念できるというのは、これ以上ない幸せなのです。
今まさにお互いめいめい大事因縁を自覚すべき時が来たのだと、臘八摂心にあたって示してくださっているのであります。
大事因縁などというと、とても困難な道のように思うかも知れませんが、それは実は平坦な道なのだと洪川老師は仰せになっています。
平坦な道だけれども、人はわが身の可愛さ、執着、とらわれが強くあるので、容易でなくなるのだというのであります。
難しくしているのは各自自分自身だということです。
時間はあっという間に過ぎてゆきます。
この臘八という尊い時を無駄に過ごしては、たとえ百年生きても意味がないぞと洪川老師は厳しく説いてくださっているのです。
のちに大事因縁というと禅の修行をやり遂げることの意味に使われますが、本来の意味を自覚しておくことが大切であります。
横田南嶺