すべては仏の現れ
白隠禅師の臘八示衆の五日目には、山梨平四郎の話が出てきます。
平四郎が、滝の落ちる水の泡が浮かんでは消えるのを見て世の無常を観じて、浴室に入って自分なりの坐禅修行をしました。
腰骨を立てて、両手の拳を握りしめて、両目を開いて一点を見つめて、純一に坐禅したのです。
すると心の中には、まるで蜂の巣をつついたように煩悩妄想が沸き起こってきました。
ただその心に沸き起こる煩悩妄想と戦ってそれらを断ち切って深く禅定に入っていったのでした。
一晩中そのように坐り抜いて、明け方雀の鳴く声を聞いて気がついて、自分の体を探してみるのですが、体がどこにもないという状態になっていました。
そのように三夜坐ったのでした。
三日目の朝に、顔を洗って庭を見ると、今まで見ていた景色と違っていました。
そこでこの心境を白隠禅師に点検してもらおうと思って籠に乗って出かけました。
薩埵峠を越えて田子浦の風景を見ると、今まで自分が得た体験は、「草木国土悉皆成仏」の端的であったと気がついたという話です。
いつもこんな話をしては、まず自らを奮起させて、修行僧達にも臘八の後半になって疲れたところを奮起してもらおうと思っているのです。
さてこの「草木国土悉皆成仏」草も木も国土もみな成仏しているという言葉ですが、岩波書店の『仏教辞典』には、」草・木・国土など心を持たないもの(非情)すべてが、人間など心を持ったもの(有情(うじょう))と同じように仏性(ぶっしょう)があって成仏することをいう」
と解説されています。
ただ『仏教辞典』には、この言葉は、「日本で新造された可能性も大きい」と書かれています。
この思想には華厳の教えも深く関わっていると思います。
司馬遼太郎さんの『十六の話』にはこんな言葉があります。
「華厳思想にあっては、一切の現象は孤立しない。
孤立せる現象など、この宇宙に存在しないという。
一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にあるとするのである。
華厳の用語でいえば、重々無尽ということであり、たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。
大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を華厳にあっては″世界″というらしい。
その世界が、唯心的に、つまり浄められ高められた心で観じられ、巨大な光明として絶対肯定されるときにこそ真理の世界(法界)がうまれるというのが、華厳思想なのである。
これを光明の側からみれば、世界(自然)は、真理(真如)のあらわれとみる。
つまりは、真理を得、真理そのものになった存在(毘盧遮那仏)の側からみるとき、世界はかがやいているらしい。つまり前掲の無数・無限の関係体が、すべて光を放っているのである。」
という言葉です。
これは華厳の教えをよく説いてくれています。
鎌田茂雄先生の『華厳の思想』(講談社学術文庫)も華厳について分かりやすく説いてくれている本です。
そこに書かれていることを引用します。
「『華厳経』では仏が毘盧遮那仏である。毘盧遮那というのはヴァイローチャナというサンスクリットを音でうつしたのだが、ふつうは「光明遍照」と訳す。
無限の光が遍く照らしだしているもの、その主体が仏であり、光明そのものを言っている。たとえば、太陽のようなものを連想すればよいと思う。」
と毘盧遮那仏について解説されています。
どんな人にも仏性が具わっていると大乗仏教では説かれています。
『涅槃経』にも『法華経』にもそのように説かれています。
しかし、鎌田先生は『涅槃経』や『法華経』では現実性に重点をおいて、今は迷える凡夫であるから仏性が隠されているけれども、修行によって仏性を現わしていかなくてはいけないと説くのだと解説されています。
それに対して華厳ではどうかというと、鎌田先生は次のように説いてくれています。
一部を引用します。
「ところが『華厳経』は本来性に重点をおくので、 一切は仏性のあらわれとして輝いており、そこには悪とか迷いというものはないという。
つまり、ふつうの考え方を逆転させているのが『華厳経』で、哲学用語でいえばア・プリオリ (a priori) の立場に立つわけである。
どんなものでも仏性の顕現と見、すべては仏の光明に包まれたものと見るのである。」
というのです。
また「どんなに悪とか煩悩、汚濁、そういうものが現実在であると実際には見えても、仏の光から見れば、それは仮の存在、仮に形を成してあるものだと考える。『華厳経』の立場からは、悪は非存在になっていき、あらゆるものは仏性のなかに生かされていくのだという考え方になるのである。」
とも説かれています。
これを華厳の重要な教えのひとつである「性起説」と言います。
「性起とは仏性現起ということで、性は仏性、起は現起である」ということであり、鎌田先生は「たとえば奈良の大仏の光背を考えるといいが、これが全宇宙を覆っているのだという考えが、「性起品」にあるわけである。」
と解説されています。
すべては仏の現れだという教えなのです。
そうすると私達の一切の営みもまた仏の現れなのだということになります。
こういう華厳の教えと禅の即心是仏は相通じるものがあります。
ただ鎌田先生も
「華厳の場合には、悪とか煩悩、汚濁などはみな仮の存在であり、全部仏のなかに包まれていくので消えていく。こうなると修行もいらなくなってしまう。 華厳が宗教としての生命を持ちえなかったのはここにある。 哲学としては理解がつくのだが、実際にこれでは人を救えないわけである。」
と説かれているように、単なる観念論、理想論になってしまうと堕落してしまう可能性もあるので、やはり深く三昧に入って悉皆成仏の端的を体験する修行を大切にすべきなのであります。
横田南嶺