生命は脚下に在り
この本は、『週刊朝日』に2019年6月から2021年4月まで連載されていた「帯津良一のナイス・エイジングのすすめ」から抜粋し推敲して収録されたものです。
この本の「おわりに」に、「希望在心中、生命在脚下」という言葉が出ています、
郭林新気功という気功があって、その指導者于大元さんという方から、帯津先生が教わったというのであります。
「希望在心中」については、郭林新気功で説かれているという「三心の樹立」をいうそうです。
そしてその三心こそが希望の源泉であると帯津先生は書かれています。
三心については、本書から引用します。
「三心とは、この気功で必ず自分の病気がよくなるという「信心」、その信念のもとに必ずやり遂げるぞという「決心」、その信心と決心を持続させて、いつでも変わらぬ心で気功に励むという 「恒心」です。」
というのであります。
そこで、この三心こそが希望の源泉であり、帯津先生は、
「心のあるところには希望が生まれる」と説かれているのです。
「生命在脚下」について、次のように書かれています。
本書の「おわりに」から引用します。
「「生命在脚下」とは脚下照顧という言葉と同様に、足元をしっかり見ようということだと思います。
がん患者さんは周りのいろんな情報に惑わされます。しかし、本当の答えは自分の足元にあるのです。
それと共に、郭林新気功は歩く気功ですから、脚こそが大事だと説いているのでしょう。」
というのです。
白隠禅師も「足心」といって足の裏を大切に説かれています。
白隠禅師の『夜船閑話』には、「仏のお言葉に「心を足の裏、土ふまずにおさめると百一の病を治することができる」と書かれいます。
また「若し心炎・意火・心火をとり静め、これを丹田下腹部と、足の裏土踏まずの間におくならば、胸の中が自然にすずやかに、あれこれ思い煩うことは少しもなく、一滴の識浪情波なく、心の波が立つことは全くなくなる。観音経にいう真観 清浄観とはこの事である。」
とも説かれています。
禅語には、「看脚下」というのがあります。
五祖法演禅師とその弟子圜悟克勤禅師にまつわる話であります。
ある夜、五祖法演禅師が、三人の弟子と帰る途中、手にしていた灯火が消えてしまいました。
法演禅師は弟子たちに「一転語を下せ」と命じます。
このような時にどうするか一句言えということです。
暗夜の道は、お互いの人生を指しているとも言えましょう。
頼りとしていた灯りが消えたらどうするのかというのです。
先ず一番に、後に佛鑑禅師と称せられる慧勤は、
「彩鳳、丹霄に舞う」と答えました。
「彩鳳」は、五色の美しい鳳凰のことです。
「丹霄」は、赤く染まった空であります。
「美しい鳳が彩雲ただよう天に舞う」様子をいいます。
目出度い言葉として、今では慶事などにも用いられています。
二番目には、後に佛眼禅師と称せられる清遠は、「鉄蛇、古路に横たう」と答えました。
鉄の蛇が、誰も通らないような古い道に横たわっているという意味です。
鉄は黒いという意味がありますので、真っ黒な蛇が人も通らぬ路に潜んでいるというのですが、なにが潜んでいるか分からないことを言います。
そして、最後には、後に法演の仏法を受け継いで、『碧巖録』を編纂する佛果禅師こと、圜悟克勤禅師が、一言「脚下を看よ」と答えたのでした。
それに対して法演は、「吾が宗を滅するは、克勤のみ」と言われました。
言葉通り受け止めると、自分の教えを滅するのは、克勤だけだということになりますが、これは禅家独特の表現であって、自分の教えを真に継承してゆくのは、克勤だけだと、克勤を大いに肯った言葉なのであります。
松原泰道先生の『禅語百選』には、「看脚下」について次のように解説されています。
「看脚下」ー 足もとをよく見よ、という平凡な言葉です。
灯火が消えたら足もとによく注意するのが何より大切です。
暗夜行路も禅も脚下ー自己の凝視から一歩を踏み出します。
日常の豊かな生活もそこから始まります。」
というのです。
松原先生は、「禅寺の玄関に、よく「看脚下」とか「照顧脚下」と記した掲示をみます。
それは、これらの語を実生活に展開して、「履物をそろえてぬげ」ということです。
仏道は足もとにあることをさとらせるのです。」
と示されて、そこから更に、
「人生行路でも大切なのは心の規定です。
たとい、手に持つ明りは消えても、心の光は消えるときはないのです。
自己の中に灯を持つことです。
江戸後期の儒学者佐藤一斎は「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜憂うることなかれ。ただ一灯を頼め」 (「言志晩録』)といっています。
禅は、自己の中に灯を持つとの教えです。
醜悪な自分の心のどん底にも、こころの点火、 こころのめざめを呼びかけるのです。
はかない人間の命の中に、久遠のいのちを発見せよと教えるのです。」
と高い意味に解釈されています。
松原先生の解説を拝読すると、なるほど心に希望を持つということと、脚下を看るということはひとつになっているのであります。
最後に松原先生は、
「鈴木大拙博士は「釈尊の最後の説法は何か」と問われて、「依頼心を捨てよということだ」と言いきられたのも、自己の中に光を見よ、ということでありましょう。」
と結んでおられます。
希望は心中に在り、生命は脚下にあり、心に刻みたい言葉です。
横田南嶺