聖なるものの否定
「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事・制度。」
と解説されています。
何らかの超越的絶対者、聖なるものを信仰するのが宗教ということでありましょう。
しかしながら、臨済の禅では、この超越的絶対者を嫌い、聖なるものを否定するという特徴があります。
『臨済録』には、「三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。」という言葉があります。
一切の仏典は、すべて不浄を拭う反古紙だ。仏とは我々と同じ空蝉であり、祖師とは年老いた僧侶に過ぎないというのです。
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」というのは、有名な言葉であります。
『臨済録』には臨済禅師が、達磨大師のお墓にお参りした話が出ています。
達磨大師は河南省の熊耳山に葬られたので、そこにお寺があったのでした。
その寺の和尚が臨済禅師に向かって
「先に本堂に行って仏さまにお参りになりますか、達磨大師のお墓に参られますか、どっちを先にされますか」
と問いました。
すると、臨済禅師は「仏さまも達磨大師もどっちも拝まない」と言ったのでした。
驚いた和尚は、「はるばるここまで来られて、達磨さんの墓も、仏さんも拝まないとは。お釈迦さまと達磨大師とどんな仇かたきの仲なのですか」と問いました。
臨済禅師は、サッと袖打ち払って立ち去ったというのであります。
禅文化研究所発行の『臨済録』に山田無文老師が、次のように提唱されています。
「達磨の拝塔に来て、拝まずに下りてきてしまう。
これが臨済の拝みようじゃ。
立派に達磨大師を拝んでおる。おもしろい働きだ。
いわば奇行のような話である。
「箇の仏の字を道うも拕泥滞水、箇の禅の字を道うも満面の慚煌」である。
仏という言葉にとらわれてはいかん。
仏という言葉を使うことさえ恥ずかしい。
法という言葉を使うのもおこがましい。
これが禅のいき方であろう。
仏だの、法だのと、何かありがたいものが自分の外にあるように思うが、それがそもそも迷いじゃ。」
というのであります。
聖なるものの否定とは、自分の外にある聖なるものを否定するのであります。
ことさらに聖なるものを求めて修行しようということを否定されたのであります。
次の言葉が『臨済録』にあります。
こちらは岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「君たちの世間では、仏道は修習して悟るものだと言うが、勘ちがいしてはならぬ。
もし修習して得たものがあったら、それこそ生死流転の業である。
また君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うが、わしから見れば、みんな業作りだ。
仏を求め法を求めるのも、地獄へ落ちる業作り。
菩薩になろうとするのも業作り、経典を読むのもやはり業作りだ。
仏や祖師は、なにごともしない人なのだ。
だから、迷いの営みも悟りの安らぎも、ともに〈清浄〉の業作りに他ならない。」
というのであります。
「仏と祖師は無事の人」というのです。
このあたりは、馬祖道一禅師の教えでもあります。
馬祖禅師の語録には、
「夫れ法を求むる者は求むる所無かるべし。心の外に別仏無く、仏の外に別心無し」という言葉があります。
「そもそも、法を求める者は求めるものがあってはならない。心の外に別の仏は無く、仏の外に別の心は無い。」
という意味であります。
また馬祖禅師は、
「本有今有、修道坐禅を仮らず。不修不坐、即ち是れ如来清浄禅なり。」とも仰せになっています。
意味は、禅文化研究所の『馬祖の語録』にある入矢義高先生の訳によれば、
「本来有るものが今も有るのだから、修道や坐禅は必要がない。修道もせず、坐禅もしない、 これが如来清浄禅に他ならない」というところです。
また入矢先生の訳文で、次の言葉もあります。
「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。
もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
何をあたり前の心というのか。
ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。」
というのであります。
聖なるものと、卑俗なるものとを区別することを嫌うのであります。
そこで聖なるものを否定してどうなるのかというと、『臨済録』によれば、
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。
君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることは できぬ。」
ということになります。
この「その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となる」というのが、「随処に主と作れば、立処皆真なり」という言葉です。
小川隆先生は、岩波書店の『書物誕生 あたらしい古典入門 禅の語録のことばと思想 『臨済録』」に次のように書かれています。
「「随処に主と作る」は、往々理解されているように、すべてを斥けてわが道を行くという、勇猛果敢の気概を表現した言葉では本来ない。
むしろ虚勢も虚飾もない、他愛ないほどのあたりまえさ、それがこの語の表す気分だったのである。
激烈な聖性否定の精神がこうした平凡な日常性の肯定と表 裏一体になっている点、そこに唐代禅の重要な特徴があるのであった。」
というご解説であります。
聖なるものの否定というのは、自己の外に聖なるものを求めることを否定するのであり、それはそのままお互いのありのまま、日常の尊さに目覚めることなのであります。
横田南嶺