シャカ族の悲劇 – その原因と結果 –
木津無庵先生の『仏教聖典』(大法輪閣)には、こんな話が載っています。
サーマという少年が出て来ます。
ヴィドゥーダバ王はビルリ王として書かれています。
サーマ少年は、ビルリ王が城門の傍にいるというのを聞いて、鎧を着けて剣をとって城外に出て、王に戦いを挑んだのでした。
荒れ狂う魔王のように兵達を斬って王に迫りました。
王もあまりにも勢いにその場から逃げてしまいました。
シャカ族を守る為に、命を捨てる覚悟のはたらきでありますが、シャカ族の長老は、この少年サーマを呼び寄せて叱りつけました。
「あなたは若いのにどうしてわがシャカ族の家門を辱めるのか。
シャカ族の者は、すべて皆よい行いをして、虫の命さえも取らないのである。
ビルリ王の軍勢を破ることはたやすいことであるけれども、多くの人々の命を殺すことを恐れているのである。
私たちの仏は、殺すなかれと教えてくださっている。
殺生の苦しみの果ては地獄に落ちるか、人間に生まれても寿命が極めて短いことを教えてくださっているではないか。
あなたはこの家門の掟を破ったものであるから、城を出てどこへなりとも去るがよい。」
と告げたのでした。
少年は仕方なく去っていったのでした。
『初期経典にみる釈尊の戦争観 シャカ族滅亡の伝承を読む』には、別の伝承として、これは少年サーマではなく、城外で農作業していた閃婆という農夫だとされているとのことです。
農夫はシャカ族が城内で、王の軍を傷害せず、もしこれを犯すものは釈種にあらずと制令を定めたことを知らなかったのだと記されているとのことです。
また『仏教聖典』には、五百名の女性がビルリ王に連れ去られて行くのですが、王の命には随わないので、女性たちは手足を縛られて坑に投げ入れられてしまった話が書かれています。
女性達は一心に仏を念じるのであります。
お釈迦様はわが種族から出て普く教えの雨を降らせて天下に注がれています。
私たちは今苦しみにあっていますので、どうかお慈悲を垂れてくださいと願います。
お釈迦様は、弟子達を連れてその戦の場に現れたというのです。
そして、帝釈天に命じて五百の女性達に衣を与え、毘沙門天に食事を与えさせました。
そしてお釈迦様は静かに、盛んなものは必ず衰え、生けるものは必ず死ぬる道理を説き、この身体があって五欲があり、五欲があって執着が起こる、このことを知って生老病死の怖を超えねばならぬことを教えられました。
女性達はこのみ教えに塵垢を離れて清らかな法の眼を得て、喜んで死に就き、皆神の世に生れたと書かれているのです。
『初期経典にみる釈尊の戦争観 シャカ族滅亡の伝承を読む』には、シャカ族滅亡の原因について、次のように書かれています。
引用させてもらいます。
「シャカ族滅亡の起因はヴィドゥーダバ王の怨念にあった。
シャカ族の不浄観を伴った血統的な差別主義がヴィドゥーダバの怨念を引き起こし、それが彼をして報復に駆り立てたのであって、言うなれば、血統によって他者を集団的に峻別して序列化し、排除するというシャカ族の種族的傲慢さが自らの破滅を招いたのである。」
という通りなのであります。
ただお釈迦様は、この悲劇は前世の報いだと説かれています。
こちらも、『初期経典にみる釈尊の戦争観 シャカ族滅亡の伝承を読む』から引用します。
「昔、この羅閲城(カピラヴァットゥ)に魚を捕える村があった。
その頃、世間は飢饉に襲われていた。
人は草の根を食らい、一升の金を一升の米に換える有様であった。
その村には大きな池があって、多くの魚が住んでいた。
村の住民たちはその池で魚を捕らえ、それを食って飢えを凌いだ。
池には拘璅と両舌という二匹の魚がいた。
二匹の魚は、自分たちは平地に住まず、池に住んで、人間に対して何も悪いことをしていないのに、なぜ食われなければならないのかと怨み、報復を誓う。
その村に八歳ばかりの男児がいて、生き物を殺すことも、魚を食らうこともしなかったが、岸で魚が死んでいるのを見て喜んだ。」
という話です。
この話の、飢えをしのぐために魚を食べたのが今のシャカ族だというのです。
拘璅がビルリ王で、両舌がビルリ王をそそのかしたバラモンだというのです。
八歳の男児はお釈迦様であります。
死んだ魚を見て喜んだ罪によってシャカ族が滅亡するときに須弥山に押しつぶされそうな頭痛を患ったというのです。
お釈迦様は、怨みは怨みを重ねて輪廻の轍を深く掘っていくのだと嘆かれたのであります。
前世の話などというと、今日あまりピンと来ないかも知れませんが、過去の歴史が今も影響している現実を思うと、理解できる一面もあるように思います。
私たちに出来ることは、これ以上怨みの連鎖を続かせないことであります。
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
という法句経の三番から五番の言葉を深く胸に刻むのであります。
横田南嶺