シャカ族の悲劇 – 殺さない戦い –
いろんな経典など伝承によってさまざまございます。
『初期経典にみる釈尊の戦争観 シャカ族滅亡の伝承を読む』という本には、それら諸説を検証した上で、その骨子を次のように簡潔にまとめてくれています。
少々長いのですが、引用させていただきます。
①コーサラ国の波斯匿王(パセーナディ)はシャカ族と血縁関係を結びたいと願い、シャカ族(利帝利・クシャトリヤ)の娘を王妃として差し出すように要求する。シャカ族の族長であった摩訶男(マハーナーマ)は、自分が下婢に産ませた娘を利帝利の女だと偽って差し出す。 波斯匿王はその娘を正妃とし、彼女との間に生まれた流離(ヴィドゥーダバ)を太子として育てる。
②流離太子が長じて、 シャカ族の都城・迦毘羅越 (カピラヴァットゥ)に遊学する。そのとき、シャカ族の人々から「下婢の娘が産んだ子」と蔑まれ、不浄なる者として屈辱的な扱いを受ける。 流離は怨念を募らせ、自分が王位に就いたときに復讐することを誓う。
③流離が王となる。
④新王となった流離は、即座に大軍を率いてシャカ族の都城・迦毘羅越に向かう。これを聞き知った釈尊は近郊の道端にあった一本の枯樹の下に座して、進攻を阻止する。それが三度にわたって繰り返されるが、四度目には「シャカ族の宿業は熟した」として、流離王の侵攻を黙過する。
⑤大目連(マハーモッガラーナ)が神通力を用いてシャカ族を守ろうとするが、釈尊は「神通力をもってしてもシャカ族の宿業は変えられない」として、それを退ける。
⑥ シャカ族は弓矢をもって応戦するが、不殺生戒に殉じて人命を損傷するようなことはしなかった。なかに勇猛果敢に攻め、多くの流離王軍を殺傷する若者も現れたが、シャカ族はその兵士を一族の掟に背いたとして追放する。
⑦シャカ族は開城するかどうかで賛否をとり、魔波旬(悪魔)の奸計に乗り門を開く。
⑧都城に攻め入った流離王軍は、シャカ族を虐殺する。そのうえ、若くて容貌の優れた五百人の釈女を連れ帰ろうとするが、拒否されたために生き埋めにする。
⑨シャカ族の族長・摩阿男が「自分が水底に潜っている間は、一族を逃がして欲しい」と申し出る。流離王はそれを聞き入れ、攻撃を中断する。 城中のシャカ族の一部は逃げのびたが、多くは再び城中に戻った。
⑩ 釈尊に激しい頭痛が起こる。
⑩ 流離王軍は都城を焼き払い、舎衛城(サーヴァッティ)へ帰還する。そのとき、戦いに加担しなかった兄の祇陀太子(ジェーダ) を斬り殺す。
⑪七日後に、流離王軍は阿脂羅河(アチラヴァッティー)の乾いた砂地で野営するが、突然の豪雨で全軍が暴流に押し流されてしまう。
⑫釈尊がシャカ族の宿業に関する因縁譚を語る。
というものです。
また玄奘三蔵の書かれた『大唐西域記』にある記述も示してくれています。
そこには、
「シャカ族九九九〇万人が虐殺された跡に建てられた数百千の卒塔婆、流離王の進軍を釈尊が阻止した遺跡に建てられた卒塔婆、五〇〇人の釈女が生き埋めにされた跡に建てられた卒塔婆、さらには流離王が悪逆の報いとして地獄に堕ちた遺跡などを当時の伝承とともに紹介している。」
というのであります。
また『大唐西域記』には、お釈迦様が
「「ヴィルーダカ王はこの後、七日にして火に焼かれるであろう。」
と告げられた。」
という記述があるというのです。
「王は仏の予言を耳にし、甚だ恐怖を懐いた。
七日目になったが、安穏で危険もなかった。
王は喜んで宮女たちに命じて、池の側に出かけ楽しく宴会をした。
それでも火が出るのを心配しながら、清流に棹さしていた。
波のまにまに浮かんでいたところ、炎がどっと起こり、乗船は焼け王の体を墜落させ、無間地獄に入り、余すところなくあらゆる苦しみを受けた。』(『大唐西域記』第六巻)
というのは、中村元先生の『ゴータマ・ブッダ中』(春秋社)に書かれています。
実際には、豪雨で暴流に流されたのではないかと察しますが、後の世にそのように表現されていったのでしょう。
「シャカ族の族長・摩阿男が「自分が水底に潜っている間は、一族を逃がして欲しい」と申し出る。」というのは、
「摩訶男(マハーナーマ)はヴィドゥーダバ王にある条件を提示し、シャカ族の助命を願い出る。
それは、自分が池に入り、水に没している間は一族が逃げるのを見逃してもらいたいというものであった。ヴィドゥーダバ王は面白がって、その条件を呑み、マハーナーマはすぐさま池に入る。
ところが、いつまでたってもマハーナーマは浮かび上がってこない。王が確かめさせたところ、マハーナーマは水底の樹に頭髪を縛りつけて、すでに絶命していた。
みずからの命を賭して一族を救おうとしたマハーナーマを見て、ヴィドゥーダバ王に後悔の念が生じた。」
という話が『初期経典にみる釈尊の戦争観』に書かれているのであります。
これまたすさまじい話です。
別の伝承には、マハーナーマの自死を知って後悔の念を起したのではなく、逆に激怒してブッダに帰依していた七万のシャカ族を地に埋め、象に踏み殺させたとあるそうです。
この本には、このマハーナーマという方は、釈尊の父浄飯王の弟である甘露飯王の子で、釈尊とは叔父、甥の関係だと書かれています。
それからこの本には、「シャカ族の戦争」「殺されても殺さない戦い」という一節があります。
そこには、シャカ族は城内にこもって制令を作り、「ヴィドゥーダバ軍を傷害せず、もしこれを犯すものは釈種にあらず」と定めたと書かれています。
またシャカ族の者は、ヴィドゥーダバ王を狙って弓で矢を放つのですが、その正確さは「頭の髻を射て王の頭に傷をつけず、鎧や武器、あるいは戦車の車輪や指揮旗を射て王の身体に傷つけず」という有様だったというのです。
彼らが自分を殺そうと思えば、自分は確実に死んでいたとヴィドゥーダバ王は恐れおののくですが、或る者が、「シャカ族は五戒をたもち、虫一匹害せず、況んや人をや」と進言したので、ヴィドゥーダバ王は再び進撃したのでした。
「生きものを(みずから)殺してはならぬ。
また(他人をして)殺さしめてはならぬ。
また他の人が殺害するのを
容認してはならぬ。
世の中の強剛な者どもでも、
またおびえている者どもでも、
すべての生きものに対する暴力を抑えて。 スッタニパータ三九四」
というブッダの言葉を思います。
このような悲惨な体験があったと思うと、より一層この言葉が胸に迫ります。
横田南嶺