慈悲と寛容
修行道場において法要をお勤めしたところであります。
釈宗演老師は、『広辞苑』にもその名前が載っています。
『広辞苑』には、
「臨済宗の僧。号は洪岳。福井県の人。
妙心寺の越渓、円覚寺の今北洪川(1816~1892)などに就いて参禅、近代的な禅の確立に努めた。
円覚寺・建長寺管長、京都臨済宗大学長。(1859~1919)」
と書かれています。
「近代的な禅の確立に努めた」とありますように、伝統的な修行をなされながらも従来の伝統にとらわれない方でありました。
宗演老師は、安政の大獄があった、安政六年に福井県高浜市に生まれました。
十二歳で俗縁もあった越渓老師について得度されています。
越渓老師は、当時妙心寺の天授院に僧堂を開かれた頃で、宗演老師もそこで修行僧達と過ごされました。
明治六年十五歳の時に、建仁寺山内の両足院で、千葉俊崖老師について学問と修行に励まれました。
宗演老師は、ここで後の建仁寺の管長になられた竹田黙雷老師に出遭われています。
お二人はお互いによき友として切磋琢磨されたようでした。
さらに愛媛県の大法寺にゆかれたり、江州三井寺に行って、倶舎論を学ばれたりと研鑽を重ねられました。
そして明治十一年の秋に、宗演老師は鎌倉の円覚寺に来て当時の管長今北洪川老師に参禅されることとなりました。
俊敏な宗演老師は明治十六年には、伝統の修行を仕上げられたのでした。
更に、宗演老師は、明治十八年に慶應義塾に入って、学問をなされました。
慶應で学んだあと、宗演老師はセイロン(現スリランカ)に行って、仏教の原典を学ぼうとされました。
セイロンでお釈迦様の教えの原典を学ばれたのでした。
セイロンではお釈迦様以来の戒律を守られる僧侶の姿に感動したのでした。
しかしそれと同じく、宗演老師が現地で目の当たりにしたものは、当時イギリスの植民地になっていた現地の人の悲惨な有様でありました。
英国の植民地となり、主権を持たない国がどんな悲惨な目に遭うかを知って愕然としてしまうのでした。
明治二十二年十月に無事帰国され、明治二十五年一月に洪川老師が遷化され、宗演老師はその後を継いで管長及び僧堂師家に就任されました。
数え年三十四歳でした。
明くる明治二十六年には、シカゴの万国宗教会議に出席されました。
当時廃仏毀釈を経て疲弊していた日本の仏教界は、この会議に出ることに積極的ではありませんでした。
しかし、このような時であるからこそ、行くべきだと宗演老師は決意されたのです。
会議は、九月十一日から十七日間行われました。
宗演老師は、二回にわたり演説をなされています。
第一回の演説は、「仏教の要旨並びに因果法」と題して、 更に「戦ふに代ふるに和を以てす」というもう一つの演説をなされています。
この宗演老師の演説は大成功であり、この演説を聞いたポール・ケーラス博士が深く感銘を受けました。
そして、この出会いが縁となって、ケーラス博士から英語に堪能な者を派遣して欲しいと依頼され、当時宗演老師のもとで居士として修行していた鈴木大拙が渡米することとなったのです。
これが世界に禅が弘まってゆくきっかけでありました。
先日もとある仏教会の和尚様方が円覚寺に拝観にお見えになって短い法話をしたのですが、この宗演老師の二回目の演説を紹介しました。
これは『禅文化』一六八号(一九九八年)に掲載された安永祖堂老師の訳であります。
一部を引用します。
「… 言うまでもなく、戦争は、絶対に許されるものではありません。戦争は、一部の野望に燃える人々が、人類の平和を脅かし、世界の秩序をくつがえそうとして、普遍の真理の実現に向かおうとする、歴史の大きな流れに逆らおうとするものにすぎないのです。有史以来、どれほど悲惨な戦いが繰り返されてきたか、過去の歴史がいかに如実に、私達に語ってくれていることでしょう。戦史に記された残酷な戦いの記述に目を通すだけで、平和を愛し、人類愛を信じる者の、胸は張り裂けんばかりとなり、嘆息とともに、巻を閉じずにはおれません。
… そもそも、戦争が私達に何をもたらしてくれるというのでしょう?
何も、もたらしてはくれません。戦争とは、弱い者が、強い者に虐げられることに過ぎないのです。戦争とは、兄弟同士が争い、血を流し合うことに他ならないのです。戦争とは、強い者が、結局何も得るものがない一方で、弱い者が、すべてを失うことなのです。
私達は、しばしば、人類はみな兄弟といいますが、互いに身構え、武器を向け合うとなれば、なんと面倒な兄弟の間柄なのでしょう。
…しかし、私達の願いは、どのようにすれば、本当にかなえられるのでしょうか?
それを助けてくれるのが、真の宗教なのです。真の宗教が、慈悲と寛容の源なのです。真の宗教の本分は、普遍的な人類愛と恒久の平和という崇高な願いの実現にあるといえるのではないでしょうか。そして、そのために、私達が中心となり、原動力とならねばならないのではないでしょうか。今回、この場におあつまりいただいている皆様と私どもが、率先して範を示さなければならないのではないでしょうか。」
今読んでも胸に響きます。
若き宗演老師の熱い思いは、戦争の絶えない現代にも強く訴えてくるのであります。
真の宗教とは慈悲と寛容の源であるという一言は肝に銘じたいものです。
晩年には京都の花園大学の前身である臨済宗大学の学長にも就任されています。
残念なことに大正八年十一月一日数え年61歳でお亡くなりになってしまいました。
宗演老師は、佐佐木信綱について和歌も学ばれていて、「わが身には昨日もあらず今日もあらず ただ法の為つくすなりけり」という歌を残されています。
この和歌の通り、六十年ただ仏法の為に尽くされたご生涯でした。
横田南嶺