「戒」あればこそ自由あり -『禅文化』270号発刊 –
先月の末に、季刊『禅文化』270号がでました。
そこで、その内容についてご紹介します。
今号は、小特集が柴山全慶老師50回忌であります。
その他には、佐々木閑先生と私の対談「『戒』あればこそ自由あり」という記事が載っています。
柴山老師については、小特集の巻頭に、
「本年は、昭和を代表する禅僧の一人・柴山全慶老師 (1894~1974) の50回忌である。
伝統性と世界性を併せ持ち、詩情豊かな感性で人々を魅了した柴山老師を偲び、 縁ある方々にご寄稿いただいた。」
と書かれています。
そのあとに、柴山老師の書かれた「花語らず」の詩の全文が、老師の書で掲載されています。
「花語らず」の詩は、私もよく引用させてもらっています。
改めて紹介します。
花は
黙って咲き
黙って
散ってゆく
そうして
再び枝に
帰らない
けれども
その一時一処に
この世の
すべてを託している
一輪の花の
声であり
一輪の花の
真である
永遠にほろびぬ
生命のよろこびが
悔いなくそこに
輝いている
誌面の中に、老師の著書『命を生きる』から次の言葉が載っています。
「許された今の一瞬に自己を完全に燃焼し、わが身が絶対者の物となり、小さな自己のはからいを捨てて、大宇宙の生命の中に自己を投げ入れ、そこで語りそこで生きる真の人格を築いてゆけと教えているのであります」
というところです。
巻頭には、ただいま南禅寺僧堂の師家である日下元精老師が、「椿物語」と題して書かれています。
柴山老師は、椿の花がお好きだったと知られています。
その柴山老師が大切にされていた椿について、実に胸打つお話を書いてくださっています。
「一輪の花の声」を感じるお話であります。
それから禅文化研究所所長や花園大学の学長を務められた西村惠信先生の「わが人生の道標、柴山全慶老師や今いずこ」と題した玉稿があります。
西村先生の柴山老師との感動的な出会いから、その人生に大きな影響を与えられたことについて、心のこもった文章を書いてくださっています。
そのあとには、山本文溪和尚が「寒松軒老大師をしのぶ」という文章を書かれています。
山本和尚もまた直接柴山老師に出逢って、深いご縁のある方であります。
もう五十年経つと直に教えを受けた方も少なくなる中で、こういう直に接した方の言葉というのは、実に有り難いものです。
それから「禅の理解」という玉稿が掲載されています。
これは「一九五九年十月国際文化振興会の主催で京阪地区在住の外国人のために開かれた「禅をきく会」における老師の講演原稿。
「禅とは何か」という外国人の初歩的な問いに対するこの懇切な答は、期せずして簡潔な禅学概論になった。」
という内容のものです。
柴山老師が分りやすい言葉で、禅について深い内容を語られたものです。
その後に、佐々木閑先生と私との対談記事が載っています。
これは、今年の五月二十五日、大学の創立記念日に、佐々木先生が花園大学特別教授就任記念に行った対談であります。
「『戒』あればこそ自由あり」という題の通り、主に「戒」について語り合っています。
その中で佐々木先生は、
「「戒」は単なる習慣性ですから、中には悪い習慣もあります。物を見ると盗みたくなるのも「戒」で、これを「悪戒」といいます。そして、よい戒である「善戒」がある。
言ってみれば「戒」は我々を日常的に縛っている規則でもあるのです。青信号を見たら歩き出し、赤信号を見たら止まるように、いちいち考えずとも自然に我々の動きが決まっていくものが「戒」です。
人によっては「人間を縛る非常に不自由なもの」とする方もおられますが、これはとんでもない間違い。信号の無い道を渡る時は、危ないので考え事ができません。「戒」があるから私達は注意力を他のものに向けることができ、思考と精神の自由を得られます。
「戒」こそが、私たちを自由にしてくれるのです。修行道場には色々な規則がありますでしょう?
それも決してそこで暮らす雲水さんを縛り付けるものではありません。
その分、雲水さんは自由にものを考え自分をしっかり見つめることができるのですから、「戒」を守るというより、「戒」に守られていると捉えた方がよいと私は思います。」
と、戒の意味について語ってくださっています。
そのあと、「誌上提唱」が二本掲載されています。
提唱とは、老師方による宗旨の挙揚であります。
本来なら修行道場に赴いて拝聴すべきものを、こうして誌面の上で拝聴できるのですから有り難いことです。
河野徹山老師の「大道真源禅師小参」の提唱と、安永祖堂老師の「碧巌録」の提唱です。
どちらも噛んで含めるように、丁寧に語りかけるように説いてくださっていますので、読むだけで老師の提唱を拝聴している思いになります。
他にも佐々木奘堂さんの文章もございます。
ともあれ、今号も読みどころ満載の誌面であります。
柴山老師は、実にいろんな分野でご活躍された方であります。
学問の面でも一流であられました。
貴重な論文も遺されています。
昭和四十年に鈴木大拙先生の薦めで渡米され、アメリカでも布教をなされました。
海外布教のご功績もございます。
私は、老師の『越後獅子禅話』という書物を持っています。
これは越後獅子という長唄を禅の立場から講じられたものです。
もともと間宮英宗老師がこの長唄「越後獅子」を講じられたのを柴山老師がお聴きになったことがあるらしいのです。
学生の頃、この本をはじめて読んで、こういう俗謡を禅の立場から読み取れるということに感動したのでありました。
「越後獅子」は「打つや太鼓の音も澄み渡り」
という一句から始まります、
柴山老師は、
「いうまでもなくこれは、一番始めに出ている、唄い出しの一句であります。
村から村へとさすらって行く越後獅子が、一つの村に入りこんで行きますと、まず親方が、力をいれて、携えている太鼓を「デデン!デデン!」と打ち鳴らします。 静かな村の空気を振わせて、時ならぬ太鼓の音がリズムをなして響き渡るでしょう。」
と説かれていて、そのあとに、
「さて、もしこのデデン!の一声を、われわれ人間の一生に比べたならば、どのようなことに当たるでしょう。
「オギァ!」とあげた産声と見るべきではないでしょうか。
この「オギィ!」の一声こそは、全く文字どおりに無念無心、無垢清浄であります。
この一声には、大臣になりたい野心もなければ、お金持ちになりたい欲望もなければ、学者になりたい希望もないと思います。
また、乞食になったら恥ずかしいという思いもなければ、きたない着物を着ては他人に笑われるとも考えていないでしょう。」
と説き進められているのであります。
太鼓の一声からも、高い禅の宗旨を読み取られているのです。
柴山老師のことは、私が初めて坐禅を教わったふるさとの清閑院の和尚が、その老師の会下でありましたので、いろんな逸話を拝聴していました。
昭和四十九年にお亡くなりになっていますので、私などは直接お目にかかることはできませんでしたが、素晴らしい老師さまだったのだろうと仰ぎ見るばかりなのであります。
十一月三日の午前十時からは、円覚寺の功徳林坐禅会で、法話を致します。
ライブ配信も行う予定ですので、お知らせしておきます。
横田南嶺