法身禅師のこと
法身禅師の七百五十年遠諱を先頃営まれたとのことなのです。
本来は、令和四年に勤められるべきところだったらしいのですが、コロナ禍の為に今年九月二十六日に行われたとのことです。
送っていただいた記念本を拝見して、とてもよくまとめられたものなので、感激しました。
瑞巌寺様は、伊達政宗公が建立した臨済宗の寺院であり、伊達家の菩提寺であります。
その本堂や庫裏などは、素晴らしい桃山美術を今に伝えるもので、国宝に指定されているのです。
そして東北一の臨済宗専門道場でもあります。
その瑞巌寺の草創は鎌倉時代にまでさかのぼることができます。
それが北条時頼公によって、法身禅師を開山として開かれていたのです。
その時の寺は円福寺と言いました。
この円福寺の法身禅師のことは、いろんな伝承が多く入り交じっており、私なども話をするときには、資料を調べても不明なことが多く、難儀していたものでした。
今回、遠諱記念にまとめられた『円福寺開山 法身性西和尚集』は素晴らしい力作であります。
まとめてくださったのは、堀野真澄さまという和尚様でいらっしゃいます。
今までは、延宝伝灯録や、元亨釈書などから断片的なことしか分らず、また鈴木常光氏の『法身覚了無一物』などを参考にしていました。
これからは、この『円福寺開山、法身性西和尚集』を底本として使えることになります。
巻末には、年譜も掲載されているので、とてもたすかります。
まず法身禅師についてあらましを述べましょう。
年譜に依れば、文治五年一一八九年常陸国真壁郡猫島のお生まれです。
径山で同じ頃修行した聖一国師は、一二〇二年のお生まれ、仏光国師は、一二二六年のお生まれです。
聖一国師は、十三才年下、仏光国師は、三七才の年下となります。
法身禅師は、もと平四郎といって、真鍋郡の領主真壁友幹に仕えました。
代が代ってその子、時幹に仕えていました。
これが有名な話なのですが、年譜に依れば、四二才の頃に、時幹に下駄で蹴られたことをきっかけに出家しました。
ある時、時幹が雪見の宴に出かけました。
平四郎はそのお供をしていました。
宴の間、平四郎は時幹の下駄を自分の懐に入れて温めていました。
忠臣であることがうかがえる話です。
やがて宴が終わり、時幹は平四郎が差し出した下駄に足を入れました。
下駄が温かいことに気付いて、時幹は「下駄を尻に敷いて休んでいたな」と激怒して、下駄を履いて平身低頭する平四郎を蹴り飛ばしました。
その時下駄の歯が折れ、雪は血で赤く染まったというのです。
「いかに領主様といえども、この仕打ちは余りにも非情ではないか」と平四郎は折れた下駄の歯を胸に抱いてひっそりと真壁を後にし、仏門に入ったというのです。
かくして出家したのでした。
『元亨釈書』には、「壮歳を過ぎて出家す、文墨を知らず」とのみ書かれています。
壮年を過ぎての出家であり、学問がなかったということが書かれているのです。
出家して修行していると、当時の南宋では、禅が盛んらしいと聞いて、南宋にわたります。
そこで径山に上って、無準師範禅師に師事しました。
仏鑑禅師であります。
聖一国師は、この仏鑑禅師のもとで修行して法を伝えて日本に帰り、京都に東福寺を開かれたのです。
法身禅師が径山で修行されたのが、一二三五年頃から一二四五年頃までなのです。
聖一国師が、一二三五年から一二四一年頃までですので、時は重なっています。
今回の資料で、聖一国師とのご縁も学ぶことができました。
仏光国師が、径山に上られたのは、一二三九年ですので、これも重なっています。
しかし仏光国師が径山に居た頃は、堂内で九百名からの修行僧がいたというので、全体では千数百人もの修行僧がいたと思われます。
ですから、それぞれ直接面識があったかどうかは不明です。
径山で仏鑑禅師は、円相を描き、その中に「丁」という字を書いて、公案として与えました。
それから法身禅師は、この「丁」の一字に全身全霊をあげて取り組みます。
坐り抜いて尻が腫れてただれたと『元亨釈書』などにも書かれているほどの修行に打ち込まれました。
約十年ほど修行して仏鑑禅師からも悟りを認められて日本に帰りました。
帰国の後、松島に来て、入り江の洞窟にこもって修行をしていたそうです。
そこに北条時頼がやってきてめぐりあうのです。
時頼公は、そのたたずまいにただならぬものを感じました。
問答をして、時頼公は、この法身禅師が実に優れた禅僧であることを知ったのでした。
やがて松島に時頼公が円福寺を開創して、その初代住職に法身禅師が就かれたのでした。
この時の出会いの洞窟は、法身窟といって今も瑞巌寺の中にあります。
これが七十一才の頃です。
そのあと更に七十七才の頃に、円福寺を出奔して青森県に移ります。
円福寺はもと天台宗だったのを、時頼公が臨済宗にしたので、天台の僧達から怨みをかったというのです。
しかし、法身禅師は、「彼冤を以て来たらば我は慈を以て受けん。又何の怖るることか之れ有らん」と仰せになったそうなのです。
そうして今の青森県十和田市に円福寺を開創して開山となります。
円福寺は後に法蓮寺となったそうです。
法蓮寺には法身禅師の木像がお祀りされているとのことです。
記念本の巻頭にその写真がありますが、頭部には時幹に下駄で割られたという傷が生々しく残っているのが分ります。
かくして文永十年(一二七三)に十和田の洞内円福寺で亡くなったということなのですが、真壁には法身禅師は真壁時幹の帰依を受けて真壁に照明寺を開創して、文永十一年(一二七三)に真壁で亡くなったという話もあるそうです。
そこで十和田の法蓮寺の近くに法身禅師の墓と伝えられる法身塚があり、真壁にも法身禅師の無縫塔があるそうです。
かくして今まで謎だったところが多い法身禅師ですが、七百五十年の遠諱に、その資料が整理されて上梓されたことはとても有り難いことです。
刊行なされた瑞巌寺さまと訳注をなされた堀野真澄様に心から感謝します。
また遠諱の記念に『松島 法身禅師ものがたり』という漫画の本も出されていて、多くの方に法身禅師のことを知ってもらえることになり、嬉しく思います。
横田南嶺