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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.10.17
今日の言葉

正しい見解

先日は、花園大学の後期の授業がはじまって、私が担当する禅とこころの臨済録に学ぶ第四回に出向してきました。

八月と九月はお休みしましたので、久しぶりの登校であります。

つい少し前までは、暑い暑いと言っていたのが嘘のような、爽やかな秋の風のふく一日でありました。

学内には、掲示板がいくつかあって、そのひとつには、「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と書かれていて、夏の暑さの名残を感じました。

久しぶりの京都なので、授業の前と後とで来客が続きました。

講義は引き続き臨済録であります。

前期で三回臨済録について講義をしてきました。

臨済録は、漢文の語録なのですが、私の担当する禅とこころの授業では、仏教学を専攻する学生が少なく、一般学生がほとんどなので、漢文を極力使わずに、岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳をもとにして講義をしています。

第一回は、学内にある校舎の名前が禅語に由来して付けられていますので、そのなかでも真人館、蔭凉館、返照館、栽松館、自適館という臨済録にちなんだ名前の校舎があります。

その臨済録にちなんだ言葉を取り上げて解説して、とりわけ返照館から「回光返照」について、パンダの喩えを話したのでした。

第二回目は、臨済禅師が生きた時代と、その人となりについて話をしました。

そして第三回は、いよいよ臨済禅師のお説法である上堂について話をしました。

「赤肉団上一無位の真人有り」という言葉を主に解説したのでした。

「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。」というお説法です。

臨済禅師の言葉としては最もよく知られているものです。

今回は、示衆について学びました。

上堂も示衆も同じお説法なのですが、上堂の方が形式的で格調の高い言葉が説かれるのに対して、示衆ではもう少し懇切丁寧に弟子達に教え諭されているものです。

分量としても、『臨済録』では示衆の部分が圧倒的に多いのです。

今回は示衆から、三つの言葉を取り上げておきました。

それは「真正の見解」「病は不自信の処に在り」「無事の人」であります。

示衆のはじめに、

「そこで師は言った、「今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。

もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。」

とあります。

正しい見地とは、原文では「真正の見解」となっているところです。

正しい見解を持つことこそ一番なのです。

まず心を落ち着けよとか、努力しよというのではなく、正しい見解を持つことが第一です。

お釈迦様が説かれた八正道にも一番はじめには、「正見」が説かれています。

そこで八正道を簡単に解説しておきました。

八正道は正見(正しい見解)、正思(正しい思惟)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい精神統一)の八つです。

正見は、四諦を理解する智慧です。

正思惟は、欲望や怒り、害意を離れた思惟です。
正語は、嘘をつかない、二枚舌を使わない、乱暴な言葉を使わない、無意味なことばを使わないということです。
正業は、殺生しない、盗まない、淫らな行為をしないことです。
正命は、邪な方法で生計を立てないことです。
正精進は正しく努力することです。
正念は、「四念処」という行法があって、身体、感受、心、法を正しく観察することです。
そして正定という正しい禅定に入るのです。

お釈迦様の説かれた正見は四諦を理解する智慧でありましたが、臨済禅師の説かれる真正の見解はそれとは異なります。

「わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない」という確信なのです。

馬祖禅師は、自心是れ仏であると明言されまました。

臨済禅師は、「祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ」と説かれたのでした。

ところがそのことを信じ切れない為に、外に向かって求めてまわるのです。

臨済禅師は「このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。
病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。」

と説かれているのです。

これが病は不自信の処に在りということです。

「この自己は釈迦と別ではない。

現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。

この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。

もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。」

と説かれているように、今目でものを見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったり活動しているものが、そのまま仏であると確信できたならば、その人こそ無事の人なのです。

無事の人を入矢先生は、一生大安楽の人と訳されています。

最後にまとめて、「自からの心がそのまま仏であるのに、そのことを信じ切れないくて、外に向かって求めてまわるのが、迷いです。

真正の見解とは、自心是れ仏と信じることであり、そうすれば、外に向かって求める心がやむのであり、それこそ無事の人であり大安楽なのだと」と話をしたのでした。

 
横田南嶺

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