生きるも死ぬの自由とは
「若し真正の見解を得ば、生死に染まず、去住自由なり。」
という言葉があります。
岩波文庫の『臨済録』では入矢義高先生が、
「もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。」
と訳されています。
人がこの世に生きることは苦であるというのは、お釈迦様の教えの根本であります。
その苦は、四苦八苦として説明されています。
まずは、生まれる苦しみです。
それから次には、老いる苦しみです。
これも誰しも老いたくはありません。
いつまでも若くいたのですが、思うようにいかず、老いてゆくものです。
それから病の苦しみです。
自分で病になろうと思う人はいません。
しかし人は思わぬ病に罹ってしまうものです。
それから死ぬ苦しみです。
これが四苦です。
それに更に四つの苦しみが加わります。
愛する人、愛しい人と別れなければならない苦しみです。
それから、憎い者と会わなければならない苦しみです。
これも避けられないものです。
次には、求めても得られない苦しみ。
欲しいと思うものは、思うように手に入らないものなのです。
そして、この体と心がこの迷いの世界に存在することがそもそも苦しみであるということです。
生老病死の四苦にこの四つを加えて、四苦八苦というのです。
その中でもやはり一番の苦しみは、死であります。
生まれたものは必ず死ぬのです。
生と死の問題こそ一番大きなものです。
「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。」とは道元禅師のお言葉です。
「須らく生死の二字を将って、額頭上に貼在して箇の分暁を討取せよ。」
という五祖法演禅師の言葉も『禅関策進』にございます。
「生死」の二文字を額に貼り付けて、これをはっきりさせるようにしろというのです。
『荘子』大宗師篇には次の言葉があります。
「むかしの真人は、生を喜ぶことも知らず、死を憎むことも知らなかった。
生まれてきたからといって喜ぶわけではなく、死にゆく段になっても死を嫌がらない。
自然に任せて行き、自然に任せて来るだけのことだ。(新釈漢文大系7「老子・荘子」上/明治書院)」
というのです。
こういう心境が、生死に染まず去住自由というのでありましょうか。
次に「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る」とあります。
「殊勝」とは「ことにすぐれている」ことです。
入矢先生は、「至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやって来る」と訳しています。
朝比奈宗源老師は、「偉そうにする気などなくとも、自然にすべてが尊くなる」となっています。
私自身が既に仏であると気がついていれば、何もことさらそうにしなくてもそのままで尊いのだということです。
また衣川賢次先生は「解脱を求めずとも、解脱はひとりでにわがものとなる」(『新国訳大蔵経 六祖壇経・臨済録』/大蔵出版)と訳されています。
山田無文老師の『臨済録』には、
「殊勝という言葉はいろんな意味に解釈されるであろう。
学問が出来ることも殊勝であるし、戒法を守っていくことも殊勝である。
威儀如法であることも殊勝であるし、食うことに不自由せず、貧乏せんということも殊勝であるし、病気が治るということも殊勝であろうし、家庭が円満だということも殊勝であろう。
近頃の宗教はみんなこの殊勝を求めているのだ。
夢中になってそれを求めなくてもしっかりと見性さえし、真実に無字がわっておれば、病気なんぞするものではない、食うに困るはずもない。
求めんでも人がついてくる。
求めんでも行いが正しくなる。人間性の真実さえつかんでおれば、裸でおっても困りはせん。」
と実に力強く提唱なさってくれています。
そのあとに、「道流秖だ古よりの先徳の如きんば、皆人を出だす底の路有り。」と続きます。
これは、入矢先生は、「いにしえの祖師たちはみな、超え出させる導き方を心得ていた。」と訳されています。
朝比奈老師は「それぞれ学徒を自由な境地に導く実力があった」と訳されています。
無著道忠禅師の『臨済録疏瀹』という注釈書には、
「先徳、人を救抜するに、種々の方便有り。出とは人を救うこと。牢獄より出すが如く、没溺より出すが如し。故に出と云う。
路は、路頭、方便を云う也。」
と解説されています。
人を出すということは、迷い苦しみの世界から救うことだというのです。
こういう古い註釈書によって、私などは解釈しているのです。
山田無文老師もまた「立派な人を打ち出して教育していくことが昔から先徳のなされた道だ。」と提唱されています。
しかし近年の研究によると、「人を出だす」とは「人より一頭地を抜く、人より優れた」という意味であると言われています。
「人より優れた力を持っていた」という意味だということです。
「出人」は「人より一頭地出る」ということなのだそうです。
つまり人より優れた、並みはずれた。抜群の意です。
ここは「人を救う」という意味ではないと『新国訳大蔵経 六祖壇経 臨済録』に衣川賢次先生は註釈されています。
すぐれた禅僧は、正しい見解を得て生きるの死ぬも自由自在、なにもことさら解脱しようとしなくても、すでに解脱しているのであり、抜群の力を具えていたという意味なのであります。
横田南嶺