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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.10.16
今日の言葉

厳しい規律

禅の修行道場というと、厳しい規律があると思われています。

坐禅も腰を入れて、少し胸を張るようにして、よい姿勢を保つようにしています。

少しでも姿勢が乱れたりすると、警策という棒で打たれます。

歩く時にも、一糸乱れず歩行します。

そして修行道場では、「新到三年白歯を見せず」という言葉もあって、笑顔を見せたりしてはいけません。

眉間に皺を寄せて、奥歯を嚙みしめて、苦虫をかみつぶしたような顔をします。

耐え忍んで修行するのであります。

そんな厳しい規律の中で耐えて修行するからこそ、多くの方から尊敬もされるというのです。

たしかにそういう一面もあるものです。

今でも古い和尚様達が集まると、この頃の修行僧は、規律が弛んでいるなどとお叱りを受けるものです。

こういう修行道場のあり方も、長年の日本の禅の伝統でもあります。

しかし、これは長続きはしませんし疲弊します。

また下手をすると表裏ができてしまうことにもなりかねません。

厳しい規律に禅の本質があるのかというと、これは問題であります。

先日湯島の麟祥院で竹村牧男先生の華厳五教章の講義と、小川隆先生の宗門武庫の講義を受けていました。

竹村先生の五教章は、とても言葉が難解であります。

華厳の難しさをしみじみ感じます。

そんな中でも先日の講義では、華厳経の「初発心時便成正覚」という言葉が出て来て、嬉しく思いました。

初発心の時に便ち正覚を成じているというのです。

初めて仏道を求めようという心に、既に覚りは具わっているということです。

こういう教えが、やがて心こそ仏だという禅の教えに発展していったのだと思います。

小川先生の講義は、いつもながら明解で楽しく学ばせてもらいました。

今回は大慧禅師の宗門武庫から、賢蓬頭とあだなされていた和尚の話でした。

蓬頭は「髪の毛の乱れたあたま」です。

「蓬頭垢面」という熟語もあります。

「髪の毛の乱れた頭とあかじみた顔。なりふり構わないさまのこと」という意味で、古くから中国で使われていたものだそうです。

蓬頭垢面や垢面蓬頭という言葉は、私どもでは、お釈迦様の成道会の法語によく使うものです。

これが古くからの言葉だと学ぶことができました。

「賢蓬頭」のことを小川先生は、「ボサボサ頭の賢さん」と訳されていました。

この方は潙山の真如慕喆禅師の門下で修行していました。

とても抜きん出た存在だったというのです。

悟りの見識は明確で、禅機は鋭く、その力量は師匠を超えるほどでありました。

けれども日常の行いが不謹慎であったため、他の僧たちから軽んじられていたのでした。

ボサボサ頭ということから、規律などには気にしない方だったということがよく分ります。

あえてそのようにしていたのかもしれません。

そうだとすると、厳しい規律と悟りの見識とは必ずしも一致しないことになります。

そこで師匠の真如禅師は方丈の裏に庵を立て、そのボサボサ頭の賢さんを一人だけで住まわせました。

そして他の修行僧たちの行き来を禁じたのでした。

そうして二年が過ぎて、真如禅師はいきなりその賢さんを修行僧の頭にして、自分の代わりに説法もさせました。

その説法が実に見事で、みなの見る目も変わったのでした。

のちに賢蓬頭は、お寺に住して数年のうちにその道が大いに行われるようになったのです。

そして亡くなった後も、その身は腐敗することなく、生前の姿をたもったままだったという話でした。

こんな話を聞くと、悟りを開くのと、規律正しい暮らしをするのとはどうも別のようであります。

ということは、規律正しく厳しい修行をするのと悟りとはどのような関係になるのでしょうか。

厳しい修行をした人が悟りを開くことはあるでしょうが、規律正しく厳しい修行をすることがそのまま悟りとは結びつかないと言えます。

私は、とある先輩の老師から、悟りを開いたら、その悟りの暮らしがなくてはならないと聞いたことがあります。

この言葉には感銘を受けたものです。

私たちの修行では禅問答を行って、たくさんの公案を調べます。

たくさんの公案を調べていくと、量が質に転化するという考え方があります。

日常の規律正しい暮らしを続けていくと、量が質に転化するように、悟りへと転化するかというと、これは難しいところです。

量質転化ということにも問題があろうかと思います。

臨済禅師は、

「君たちの世間では、仏道は修習して悟るものだと言うが、勘ちがいしてはならぬ。

もし修習して得たものがあったら、それこそ生死流転の業である。

また君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うが、わしから見れば、みんな業作りだ。

仏を求め法を求めるのも、地獄へ落ちる業作り。

菩薩になろうとするのも業作り、経典を読むのもやはり業作りだ。

仏や祖師は、なにごともしない人なのだ。

だから、迷いの営みも悟りの安らぎも、ともに〈清浄〉の業作りに他ならない。」
と説かれています。(岩波文庫『臨済録』七十六ページ)

ことに殊勝ぶることを嫌うのです。

そこで敢えて、規律に随わないこともあるのです。

小川先生も日本の一休さんのことに触れていました。

一休さんの肖像を拝見しても頭は剃らず、無精ひげを生やして行儀よい姿には見えないのです。

敢えてそのような姿や行動をしていたのだと察します。

そうかといって、そのような振る舞いをまねるのは愚かの極みです。

それから今回小川先生が説かれていて驚いたことがありました。

昔の高僧で悟りを開いた立派な方は、坐禅をしたまま亡くなると、そのまま土葬したのですが、その全身が腐敗しないということです。

土葬すると何年も腐敗せずにそのままの姿で残っていて、それを有り難く思って漆で塗ったりしたという話もありました。

悟りを開いた高僧は火葬にすると、舎利が残り、土葬にするとその肉身が腐敗せずに残るということでした。

すごい話だと思いました。

とても到れるものではないと思いますので、せめて毎日規律正しく暮らすのみなのです。

毎日規律正しい暮らしをすることと悟りの問題は難しいところではありますが、私などは、地道に毎日コツコツ努力精進を重ねるしかないのであります。

ただあまり規律にとらわれると長続きしませんので、無理のない精進を心がけているのであります。

 
横田南嶺

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