慈悲のこころを
朝比奈宗源老師がおはじめになって今日まで続いています。
コロナ禍の間は、いろいろと苦労して来ました。
はじめの頃は誰もいないところで話をして、動画の配信だけを行っていました。
どうには、お寺の方丈に入ってもらうようにしても人数制限をして行っていました。
最近は人数制限をせずに行っていましたが、それでもなかなかコロナ禍の前のようには戻りませんでした。
そこで、動画での配信も同時に行うようにしていました。
コロナ禍の前には、毎月四百名から五百名にかけての方々がお集まりくださっていたのでした。
先日の日曜説教では、久しぶりに三百名近い方がお集まりくださいました。
方丈の中はいっぱいになったのでした。
少し以前までは、皆様に間隔を開けてお坐りくださいと申し上げていたのが、いっぺんしてもう少しお詰めくださいと申し上げるようになっていました。
有り難いことであります。
坐りきれないほどでありましたので、今後は配信の為の場所をどうするか、ライブ配信が必要なのか、検討を要するところであります。
同じ時間でライブ配信を行うのは、とても難しいことらしく、専門の業者にお願いして、かなりの場所を取って撮影してもらっています。
かつては、寺の者が柱の陰でカメラ一つで録画して、配信していたものです。
毎回どのような話をするのかは、日曜説教が終わったその日から、次回どうしようかと考え始めます。
今回は、ちょうどかまくら春秋社から前田万葉枢機卿との共著『心をたがやす』が出版されましたので、その本の話をしました。
はじめに本の題名となっている「心をたがやす」ということについてのブッダの逸話を紹介しました。
お釈迦様がある村を托鉢されていたときのことです。
村はちょうど種まきの時期でバラモンの指示によって忙しく種まきの支度をしていました。
托鉢するお釈迦様の姿を見て、その村のバラモンが「私は田を耕し、種を蒔いて食を得ている。あなたも耕して食を得たらどうか」と言いました。
お釈迦様は、私も耕していると答えます。
そんな姿を見たことがないというバラモンに、お釈迦様は「信は我が蒔く種であり、智慧は我が耕す鋤である。悪業を制するのは我が除草である。精進は我が引く牛である」と答えたのでした。
お釈迦様は荒れてしまった私たちの心に「信じる心」という種を蒔き、正しい智慧を鋤として耕してくださったのでした。
新しく出版された『心をたがやす』は、前田万葉枢機卿が、聖書のことばを、私が仏典の言葉を選んで、四百字ほどで解説するという連載であります。
『かまくら春秋』という月刊誌で令和三年から連載がはじまって、二十五回の話をまとめて、更に前田神父と対談してそれを新たに掲載したものです。
この本を元にして仏教の話をまとめようと構想を練りました。
法話というのは一番大切なのが、その構成であります。
どんな構成にするかが重要となります。
まず新刊本にちなんだ法話なので、新刊本のいちばんはじめに載せられた、前田神父の聖書の言葉を紹介しました。
連載の最初の聖書の言葉は、
「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」でありました。
枢機卿は、こう書かれていました。
「イエス・キリストの十二使徒の頭になるシモン・ペトロは漁師でした。
イエスに従う前日、シモンは夜を徹して漁をしたのですが一匹の魚も網にかかりませんでした。
舟を陸にあげ、網を洗っているシモンにイエスが掛けた言葉は 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」でした。
シモンはプロの漁師です。イエスは大工の子どもです。
シモンはその時に心の中でどう思ったのでしょう。
でもイエスの言葉を信じて舟を出し、網がはち切れんばかりの大漁になったのです。小さな誇りや自負をすてて、時には人の言葉を素直に受け入れる心が大切なのです。」と解説されています。
私たちは、つい「お言葉ですが」「お言葉ですけれども」と言ってしまいがちですが、それを「お言葉ですから」と素直に受け入れる心が大切なのだと話をしました。
その次に、私が最初に選んだ言葉を紹介しました。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」
という『法句経』の言葉です。
この言葉を紹介して、ジャヤワルダナ氏の話や、円覚寺開創の精神である怨親平等について話をしました。
怨みを抱いていることは苦痛でしかないので、そのことから、次に、それは怨みのみならず、貪りや怒りなどであるとして、次のお釈迦様の言葉を紹介しました。
「船より水を汲み出しなさい
水を汲み出したら船は軽く進むでしょう。」という『法句経』の言葉です。
貪りや怒りという水が船を重くし、はては船を沈めてしまいます。
貪りや怒りに気づいて、それから離れるようにすれば軽く船は進むのです。
それから、
「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている」
という言葉を紹介して、怒りや憎しみは言葉になって現われることを話しました。
前田神父も同じような事を聖書の言葉で示してくださっています。
前田神父は、「「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(「ヤコブの手紙三一八」より)というものです。
人の力だけでは舌を制御することは出来ませんが、神さまの心を持てば出来ると思います。
「思いやりの心」です。
それは、「おはよう、ありがとう、しつれいしました、すみません」の「オアシス運動」の心でもあります。」
と説かれています。
そこから、思いやりの心、慈しみの心はどこから出てくるのかと、次の言葉を紹介しました。
「おのれの愛しいことを知るものは他のものを害してはならぬ」という言葉です。
この世に自分より愛しいものは見いだせないというパセナーディ王夫妻に、ブッダは、
「人は、どんなに思いを馳せても、自分よりも愛しいものを見いだすことはできない。それと同じく他の人々にとっても自己はこの上なく愛しい。おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ」と説かれたのでした。
そして「あたかも母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし」という言葉を紹介して、仏教で最も大切な慈悲のこころに話を結びつけたのでした。
その慈悲を具体的にお釈迦様はどのように実践されていたかを、
「誰かわたしのために針に糸を通してくれませんか」という言葉を紹介して示しました。
目の見えない弟子のアヌルッダが、ある日、衣の綻びを繕おうとして、「誰か私のために針に糸を通して、功徳を積もうとする方はいませんか」と呼びかけました。
まっさきに近づいてきて、「私が針に糸を通して功徳をつませてもらおう」と言ったのが、お釈迦様その人でした。
困っている人には、真っ先に駆けつける、そんな慈悲のこころを持って実践していたのがお釈迦様その人でありました。
というように、はじめ怨みの話から、貪りや怒りが人を苦しめること、言葉が恐ろしいことを示して、その怒りを制御できるのは思いやり、慈悲のこころに他ならないと法話をしたのでした。
終わった後に、新刊本に署名しますと多くの方がお求めくださいました。
「お言葉ですから、買います」と仰ってくださった方もいました。
そして多くの方が毎朝のラジオを楽しみにしていますと伝えてくださいました。
署名していると、今回久しぶりに日曜説教に来たという方もいらっしゃって、ようやく人も戻ってきたと感じた有り難い日でありました。
横田南嶺