神宮寺法話
有り難いご縁であります。
神宮寺の先々代の高橋勇音和尚は、松原泰道先生とご昵懇でいらっしゃいました。
そこで神宮寺ではよく御法話をなされていたのでした。
神宮寺での法話が書籍になったものもあります。
そんな神宮寺で法話をさせてもらえるというのは、私にとってとても身に余る光栄であります。
一作年にはじめて神宮寺さまで法話をさせてもらいました。
その時には、まだコロナ禍の最中でもあって、かなり人数を制限して行ったのでした。
昨年は、今の谷川光昭住職の晋山式に招かれました。
そして今年は法話会となったのでした。
今回は谷川和尚のご人徳もあって、二百名を超える方々が集まってくださいました。
大人数となったので本堂ではなく、アバロホールというホールで法話となりました。
このホールが実に立派なのであります。
二百数十名入ることが出来るのです。
木製の良いイスも揃っています。
講演などにはとてもよいホールであります。
お寺でこんなホールを持っているところは滅多にありません。
谷川和尚から、本堂とホールとどちらが話しやすいですかと聞かれました。
今回は人数の都合でホールを使わざるを得ないのですが、どちらがやりやすいかということです。
雰囲気という点でいえば、本堂がやりやすいものです。
それこそ、松原泰道先生のお話ではありませんが、壁も柱の長年にわたって和尚様の読経や、法話を聞いていて、それが染みわたっています。
その場に坐るだけでも大きな力を得ることができるのが本堂です。
ただマイクを使って話をする場合にはマイクの調子などが難しいことがよくあります。
それに比べてホールですと、音響の心配はありません。
マイクの調子もよろしいので、話しやすいのです。
ただ雰囲気というと、本堂には及ぶものではありません。
今回は、ホールでの法話となったのですが、少しでも本堂の雰囲気を出す為に、中央に仏様を安置して、はじめに皆で読経をしたのでした。
これは有り難いことでありました。
みなでお経を唱えると、十分に話を聴こうという心ができあがるものです。
神宮寺では、先代住職の高橋卓志和尚が、「尋常浅間学校」といって、永六輔さんを校長に、無着成恭師を教頭に迎えて一九九七年に開校し、十年間百回にわたって学びの会を行っていたそうです。
そんな伝統もあるので皆さんとても熱心に聴いてくださいました。
当時は朝からとてもよいお天気でした。
長かった夏の暑さも終わって実にすがすがしい朝でした。
少しひんやりするくらいでした。
朝夜が明けると同時に旅館から歩いて神宮寺様にお参りすると、谷川和尚が、竹箒をもって掃除をなさっていました。
神宮寺の北側に御射神社があります。
もともとこの神社の別当寺として創建されたのが神宮寺だそうです。
素晴らしい神社で、朝早くにお参りさせてもらいました。
さて当日の法話は、「信とは」という題で一時間話をしました。
漢和辞典で信という字を調べてみると、
「まこと。言明や約束をどこまでも通すこと。
前言をかえたり、途中で屈したりするのを不信という。」
という意味が最初に書かれています。
「信義」という言葉があったり、「民、信無なくんば立たず」という『論語』の言葉が用例としてあります。
それから、形容詞で「まこと。本当であるさま」
副詞で「まことに。本当に」。
動詞で「信用する」。
名詞として「約束。また、約束のしるし」。
動詞として「まかせる。引きとめずにまっすぐにのばす。いくにまかせる。」
という用例があります。
「手に信す」というのは「手の動くままに任せる」という意味です。
『広辞苑』で調べると「信ずる」としていくつかの意味が書かれています。
「まことと思う。正しいとして疑わない」ことです。
「霊魂の不滅を信ずる」とか「身の潔白を信ずる」や「勝利を信ずる」として使われます。
それから「まちがいないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。」
という意味で「部下を信じて仕事をまかせる」という用例があります。
それから「信仰する。帰依する」。
「仏法を信ずる」という場合です。
『森信三一日一言』には、
「信とは、人生のいかなる逆境も、わが為に神仏から与えられたものとして回避しない生の根本態度をいうのである。」
「信とは、いかに苦しい境遇でも、これで己れの業が果たせるゆえんだと、甘受できる心的態度をいう。」
という言葉もございます。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「対象(仏や教義)に対する客観的・知的理解に基づく信頼・信用を意味し、宗教的行為を起こさしめる原動力」
と解説されていて、信は大きな力になることを話しました。
朝比奈宗源老師は、「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。
これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。
掘れば出ると思うから骨も折れる。
だから我々の修行もそれと同じだ。
仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」
という言葉も紹介しました。
最後には、坂村真民先生の詩を紹介しました。
花
何が
一番いいか
花が
一番いい
花の
どこがいいか
信じて
咲くのがいい
咲くことができると信じて花を咲かせているのです。
最後には
連帯
悲しいことがあったら
誰かに話そうではないか
困ったことがあったら
助けあおうではないか
死んでしまいたいことがあっても
捨てたまわぬ方のあることを知り
生きてゆこうではないか
連帯という虹の輪を
もっと広め強めてゆこう
個の時代は去ったのだ
新しいつながりを作ってゆこう
という詩を読みました。
「死んでしまいたいことがあっても
捨てたまわぬ方のあることを知り」
というのは、信じていてくれる人がいるということなのだと話をしたのでした。
かくして神宮寺様での法話会は無事に終えることができました。
お昼はお寺でおいしいおそばをいただいて帰路につきました。
谷川和尚や神宮寺の皆様にはとてもよくしてもらいました。
有り難い法話会でした。
また皆様にお目にかかれることを信じていますと言って終えたのでした。
横田南嶺