開智
『広辞苑』には、
「(明治期の語)知識を開くこと。知識が啓発されること。」
と解説されています。
諸橋轍次先生の『大漢和辞典』にも「開智」という熟語があります。
意味は、「ちえをひらく」で、用例として「開智生福、不堕悪趣」という言葉が載っています。
智を開いて福を生じ、悪趣に堕せずということです。
長野県の松本市にある開智学校は有名であります。
先日松本市の神宮寺様の法話会に招かれた折に、開智学校を訪ねてみました。
松本城は、初めて松本を訪れた折に見学していました。
今回は、開智学校を見ようと思ったのでした。
残念ながら、ただいま開智学校の校舎は、耐震工事の為に休館中なのです。
外観しか分らなかったのですが、素晴らしい建物だということはよく分ります。
そのすぐ近くに松本市旧司祭館というのがあって、そこを建学すると、開智学校のパンフレットがありましたので、いただいてきました。
そのいただいたパンフレットによれば、
「開智学校は、江戸時代の松本藩校崇教館の流れを引き継ぎ、 明治5年(1872)5月に開校した筑摩県学を母体としています。
同年9月の学制発布を受けて、 翌6年5月に開智学校となりました。」
と書かれていますので、今年で創立百五十年となります。
私が総長を務める花園大学も昨年で創立百五十年でした。
学制が発布されたのが、明治五年ですので、その年や翌年に創立された学校が多いのです。
またパンフレットには、
「当時、 松本は筑摩県に属していましたが、 教育を立県の指針とした筑摩県権令(現在の知事) 永山盛輝の学事振興政策により、 就学率が全国1位となるほど県民の教育への理解が進んだ土地でした。
開智学校は、そんな筑摩県の一番の中心校として整備されました。
開校当初の校舎は、 廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を利用しました。
全久院は旧松本藩主戸田家の菩提寺でした。
校内には丸太柱や桟唐戸など、周辺寺院から転用された部材が残っています。」
と書かれています。
それが今の残っている校舎になったのが、明治九年のことだそうです。
こちらもパンフレットによれば、
「旧開智学校校舎は、明治9年(1876)4月に完成し、その後90年近く使用された小学校の校舎です。
地元松本の大工棟梁立石清重が設計・施工しました。
和風と洋風が混ざりあった擬洋風の校舎は、東京の開成学校(東京大学の前身)や国立第一銀行をはじめとして、当時の擬洋風建築の特徴をよく取り込んでいます。
東西南北の風見を配した八角塔がそびえ立ち、舶来のギヤマン (ガラス)が散りばめられた白亜の広大華麗な校舎の出現に、人々は新しい時代の幕開けを感じたことでしょう。」
と書かれています。
昭和三十六年に重要文化財となり、更に令和元年には、国宝となっているのです。
近代学校建築としては初めての国宝だというのです。
こちらのパンフレットによれば、
「開化期の洋風建築受容の様子を示し、近代教育の黎明期を象徴する校舎として、 深い文化史的意義を有すると評価された校舎は、激動の時代に立ち向かった当時の人々の気概と新時代への希望を今に伝えています。」
と解説されています。
工事中の旧開智学校の校舎は、外からしか拝見できず、すぐ近くにある松本市旧司祭館を訪ねました。
こちらもいただいたパンフレットによれば、
「旧司祭館は、明治22年(1889) にフランス人のオーギュスタン・クレマン神父により、松本城のすぐ北側の地、地蔵清水(現丸の内) に建築された西洋館です。
以後、100年近くにわたり松本カトリック教会の宣教師たちの住居として使用されました。」
という建物です。
そこの売店に尋常小学校の教科書を複製したものが売っていましたので購入しました。
『尋常小学校 國語讀本』と『尋常小学 修身書』であります。
修身の教科書は、挿絵と共に短い話が書かれています。
「トラキチノ ナゲタマリガ ソレテ、 トナリノシャウジヲヤブリマシタ。
トラキチ ハ スグ トナリ ヘアヤマリニ イキマシタ。」
という言葉があります。
「メノミエナイ人ガ ミヅタマリノ中へ フミコマウト シマシタ
コサブラウハ テラヒイテ ミチノヨイトコロヘ ツレテ イキマシタ。」
という言葉があって、目の見えない人の手を引いている子どもの絵があります。
「タラウガ ジラウニ 」ワタクシタチモ ソトヘデラレナケレバ クルシイ デハナイカ」ト イツテ キカセタノデ、ジラウ ハ ツバメラ ダシテ ヤリマシタ。」
という言葉と、二人の子どもがツバメを外に逃がしてあげる絵が描かれています。
素朴な絵と共に思いやりの心を教えてくれています。
『國語讀本』も微笑ましい絵と共に文章が書かれています。
牛と馬の絵があって、
ウシガ ヰマス
ウマガ ヰマス
ウシト
ウマガ ヰマス
と書かれています。
真理そのものを表しています。
町の風景の絵には、
オミヤ ガ アリマス
オテラ ガ アリマス
ヤクバ モ アリマス
と書かれています。
さるかに合戦の話も載っています。
サルガ カキ ノ タネヲ
カニ ニ ヤリマシタ。
カニガ ニギリメシ ヲ
サルニ ヤリマシタ。
ハヤク メラ ダセ、
カキノタネ。
ダサヌト、
ハサミ デ
ハサミ キル
メヲダシマシタ。
ハヤク キ ニナレ
ナラヌト、ハサミ デ
ハサミキル。
キニナリマシタ。
ハヤクミガナレ
ナラヌト、
ハサミデ
ハサミキル
ミガナリマシタ。
サルガ ミツケテ トリマシタ。
アヲイノヲ
カニニ ナゲツケマシタ。
カニ ガ シニマシタ。
コガニ ガ ナイテ ヰマシタ。
ハチガキテ
ナク ワケヲ
タヅネマシタ。
ハチガ
キイテ
オコリマシタ。
クリモ キイテ
オコリマシタ。
ウス モ キイテ
オコリマシタ
カタキウチ ヲスル
コトニナリマシタ。
クリガ トビツキマシタ。
サルガ ヤケドヲ シマシタ。
サルガミヅラ ツケ ニ イキマスト
ハチガ チクリト サシマシタ。
サルガニゲダシマシタ。
ウスガ オチテキテ
サルヲ オシツケマシタ。
コガラガ サル ノ クビヲ ハサミキリマシタ。」
という話です。
こういう絵の着いた読本で学んで、子どもたちもそれぞれ智を開いていたのだと知ることができました。
「開智生福、不堕悪趣」、「智を開いて福を生じ、悪趣に出せず」とは、『廣弘明集』という唐の道宣律師の編纂された書物にある言葉です。
横田南嶺