身につく
七月以来二ヶ月ぶりであります。
今回、椎名先生は、「身につく」ということをとテーマになされました。
「身につく」とは、なにが身につくのか、身につくとはどういうことなのかという問いから始まりました。
ある修行僧は、よい習慣が身につくということを言っていました。
たとえば、朝早く起きるとか、すばやく掃除をするとか、そのような習慣が身につくことをあげていました。
身につくとは、どういうことかについては、ある修行僧は、自然とこなせるようになること、自然と動けるようになることだと言っていました。
よい姿勢が身につくということもあります。
考えなくてもできるもの、あたまで考えなくても自然と出来るようになるのを身につくことだということもあります。
自分であたりまえになっていて、自分では気がつかないほど自然にできるようになることだという答えもありました。
では、身につくには、どのくらいの期間が必要かと問われました。
二乃至三ヶ月で身につくものもあるという人もいました。
七日から十日で身につくという人もいました。
一ヶ月はかかるという人や、六ヶ月くらいという人もいました。
六ヶ月くらいと答えた修行僧がもっとも多かったのでした。
三年くらいと言う人も、三年以上という人もいました。
もっとも何を身につけるのかによって、年数も異なるものでしょう。
椎名先生は、楽器をならってピアノの演奏が身につくには、とても数ヶ月では無理で何年もかかるものだと仰っていました。
難しい曲でも自然と意識しなくても指が動くようになるにはそれこそ何年も修練が必要であります。
椎名先生は、身につくということは決して簡単なことではないと仰せになりたかったのでした。
今はすぐに分ること、すぐにできることを求めることが多いようです。
すぐ出来る、すぐ分るというのは、頭の理解だというのです。
頭ではなくて、身につくということは身体のことなのです。
修行道場でも坐相三年と言ったりしています。
坐禅の姿勢が身につくようになるのに、やはり三年はかかるという意味です。
衣が身につくようになるにも年数がかかります。
鈴木大拙先生が、はじめて円覚寺を訪ねて今北洪川老師にお目にかかる時の話を思い起こします。
洪川老師に取りついでくれたのが、当時の円覚寺僧堂の知客寮といって、修行僧の頭にあたる者ですが、それが廣田天真という方でした。
この天真老師は、後に円覚寺の管長にもなり、京都の東福寺の管長にもなられた方であります。
この天真老師の修行僧時代のことなのです。
大拙先生は、次のように『激動明治の高僧 今北洪川』に書かれています。
「この天真師というのは、後に円覚寺の管長にも東福寺のにもなられた人であるが、 知客寮でお目にかかったとき、雲水坊さんというものはこんなものかと思わせられた。
ちょっと達磨さんを想像されるような顔つきやら態度であった。
何年かの間、 禅堂生活で鍛え上げると、あんな風に一人前の禅坊さんが出来るのであろう。
薫習の力は二、三年では浸透しない。
どうしても六、七年はかかるであろう。
意識することなくして、自らに四囲の空気を吸い込むところに教育の効力があるのである。
二年や三年で間に合わせようとしても、だめだ。
それではいかもの以上には出ない、鍍金はすぐはげる。
禅堂教育というものを考える上においても、この無意識の薫染に意を注がなければいけない。」
と書かれています。
薫習というのは、『広辞苑』には、
仏教語として「物に香が移り沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより、他のものに影響・作用を植えつけること。」
と解説されています。
このへんについて道元禅師は、
「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。よき人に近づけば覚えざるによき人となるなり」と仰せになっています。
霧の中を歩いていると、濡れると感じなくても、しばらく歩けば、しっとりと衣が湿ってきます。
そのように、よき人のそばにいれば、人柄も自然とよくなってゆくというのです。
お釈迦様があるときに、大勢の弟子達を連れて歩いておられて、道に古紙が落ちているのをご覧になって、弟子達にこれを拾うように言われました。
その紙を手に取った弟子にお釈迦様は、「これは何の紙か」と尋ねました。
弟子は「これは香木を包む紙です。今は捨てられていますが、もとのように香がまだ残っています」と答えました。
さらに歩いて行くと、道に縄の切れ端が落ちていました。
お釈迦様は弟子達にこれを拾うように言われました。
その縄を手に取った弟子に、「これは何の縄か」と尋ねました。
弟子は「この縄は、生臭い、魚をつるす縄です」と答えました。
そこでお釈迦様は説法なされました。
「ものは皆本来清浄である。それが様々な因縁によって清らかにもなり汚れたりもする。あの紙や縄が、香木を包めば香しく、魚をつるせば生臭くなるように、次第に染みつくのだ。人も賢明な人に近づけばよくなってゆき、愚かな者を友とすれば、悪くなってしまう」。
あたかも香が染み込むように、よき影響を与えてゆくことを熏習というのです。
薫習ということにまで発展させると、身につく、板につくという言葉が深まります。
まずはよい姿勢を身につけたいものです。
ゼロ歳児から二歳児くらいまでは、腰を立てて坐ることができます。
ところがゼロ歳児でも姿勢が崩れることがあると椎名先生は仰っていました。
ある時に外で食事をされたときのことだそうです。
となりのテーブルに若い夫婦と子どもが坐っていたそうです。
子どもは子供用のイスに坐らされて、なんと目の前にスマートフォンかタブレットで動画を見せられていたそうなのです。
ゼロ歳児でも、その画像を見ようと頭を前に出して身を乗り出します。
もうまっすぐな姿勢が崩れるのです。
この頃から姿勢が崩れるのかと思ったと椎名先生は仰っていました。
悪い姿勢を身につけると治すのに時間がかかります。
よい姿勢、よい呼吸、よい習慣を身につけたいものです。
横田南嶺