山岡鉄舟の寺
平成二十六年から毎年おうかがいしています。
はじめは春の彼岸会に行っていましたが、この頃は秋の彼岸会に招かれています。
コロナ禍の二〇二〇年と二〇二一年とはやむなく中止となりましたが、昨年の秋にはおうかがいしました。
全生庵の和尚様の法話を行うことに対しての強い意志を感じます。
困難な時にあたって、その人の真意が試されるとは、よく言われることでありますが、コロナ禍にあっても彼岸会を続けよう、法話を継続しようという熱意には頭の下がる思いであります。
特に全生庵様は、なんといっても山岡鉄舟先生がお建てになったお寺なのであります。
山岡鉄舟といえば、『広辞苑』にも、
「幕末・明治の政治家。
無刀流の創始者。
前名、小野高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。
江戸生れの幕臣。剣術にすぐれ、禅を修行、書をよくした。
戊辰戦争の際、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させた。
のち明治天皇の侍従などをつとめる。子爵。(1836~1888)」
と解説されています。
江戸の生まれとありますが、数え年十歳のときに飛騨の高山に移っています。
岩佐一亭に書を習い、井上清虎から北辰一刀流を習いました。
剣と禅と書の三つを究められたと言われています。
禅については、当時の名だたる禅僧について歴参修行され、天龍寺の滴水禅師から印可を受けられているのです。
鉄舟居士の人となりを表す好きな話があります。
教育評論社の『最後のサムライ 山岡鉄舟』から引用します。
「鐵舟は十九歳の時に山岡静山の門に入って槍術を学んだ。
だが静山は程なく水練の師匠の難を救うべく、隅田川で水死してしまった。
師を失った鐵舟はいよいよ敬慕の念を抑えることができず、毎夜課業を終えるとひそかに亡師の墓参りをした。
ところが寺僧がこれを妖怪だと思い、静山の実弟で高橋家を継いでいた高橋泥舟にその旨を告げたので、泥舟はその正体を見届けてやろうと、ある晩時間を見計らって物陰で様子を窺っていた。
すると、一天にわかに掻き曇り、電光が閃き、雷鳴は地を震わし、夕立模様となった。
まさにその時、いずこより誰かが一人駆けて来る。
その者は静山の墓前に一礼すると、すぐさま羽織を脱いで墓にかぶせ、身体を寄せると、「先生、ご安心なさいませ。 鐵太郎が側にいます」と言う。
その語気、まさに生きている静山に対するかのようである。
泥舟はここで初めて妖怪の正体が鐵舟であったことを悟り、思わず感激の涙を流した。 」
という話であります。
こういう裏表のないまごころを持った方なのだとよく分ります。
また『広辞苑』に「戊辰戦争の際、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させた」とありますように、鉄舟居士は単身駿府に乗り込んで、官軍の大総督府参謀西郷隆盛に会うのであります。
『最後のサムライ 山岡鉄舟』には次のように鉄舟居士の決意が書かれています。
さすがの勝海舟もはじめは本当に鉄舟居士が駿府に行って西郷に会えるのかいぶかっていたと思われます。
「貴殿はどのような方法でもって官軍の陣営の中に入っていくのか」と鉄舟居士に聴いたと書かれています。
そこで鉄舟居士は、
「官軍の陣営の中に入れば、斬られるか捕縛されるかのどちらかしかないだろう。
その時に至っては両刀を渡し、捕縛しようとするのであれば縛につき、斬ろうとするのであれば、『わたしの考えを一言、大総督宮に言上させてくれ。 もし、その言が否ということであれば、すぐにでも首を刎ねればいい。その言を是とするのであれば、この処置はわたしに任せてくれ」と言うだけである。 是非を問わないで、ただ意味なく人を殺す道理があるものでもないだろう。 決して難しいことではないはずである」と答えた。」
というのであります。
かくして西郷と出会い、その上で勝海舟と西郷隆盛との会談が実現したのでした。
そのおかげで江戸は火の海にならずにすんだのでした。
西郷をして、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、なんとも始末に困る人」と言わしめたのでした。
鉄舟居士は、円覚寺の今北洪川老師にもついて参禅されています。
明治五年から十年間、明治天皇の侍従をお勤めになっています。
明治一五年に侍従をお辞めになって出家しようと思ったのですが、洪川老師は「坊さんの真似をする必要はない。自分の道を貫けばいいんだ」と諌めたといいます。
その鉄舟居士をお諫めになった漢詩が、全生庵様に残っています。
私も心から尊敬するのが鉄舟居士であります。
その鉄舟居士のお寺で法話をさせてもらえるのですから、こんな有り難いことはありません。
法話の前には、鉄舟居士のお墓にお参りしました。
全生庵は、この鉄舟居士が、明治維新の際にこの国のために命を落とした御霊の菩提を弔う為に建立されたお寺なのであります。
お墓にお参りする折にも何人かの方から、いつもYouTubeを聴いていますとお声をかけていただきました。
有り難いことです。
また鉄舟居士や全生庵様は、私が学生時代に出家した白山の龍雲院とも深いご縁があります。
龍雲院は明治の時代に南隠老師が住して白山道場を開いたお寺です。
南隠老師は、全生庵の第二代であり、鉄舟居士がお亡くなりになった時には葬儀の大導師もお勤めになった方であります。
私も学生時代には全生庵で、当時龍沢寺の師家であられた鈴木宗忠老師のお話を拝聴したものであります。
もう四十年前のことになります。
全生庵さまについて、控え室に案内されると、素晴らしい書が床の間に掛けられていました。
天龍寺の滴水老師の全紙の大書であります。
圧倒されるほどの迫力の書であります。
初めて拝見する書でした。
数年前に見つかったとのことでした。
鉄舟居士に託すという為書きもありますので特別な書であることが分りました。
こういう素晴らしい書を拝見できるのも有り難いことでありました。
かくして有り難い思いで彼岸会の法話を務めさせてもらいました。
横田南嶺