信じて坐る
と仰せになりました。
あなた方、各、自らの心が仏なのであり、この心がそのまま仏心であることを信じなさいという意味です。
もともとブッダは、
『法句経』の33番に「心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする」
と説かれ、
また同じく35番に「心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。」
と、
心は制御すべきものとして説かれています。
「心の師となるとも心を師とせざれ(願作心師、不師於心」という言葉も『大般涅槃経』にあります。
心を師とするなと言っているのに、馬祖禅師は、その心こそ仏であると説かれたのであります。
正統な仏教学を学んでいる人からすれば、とんでもない説ということになりましょう。
しかし、馬祖禅師の教えを受け継いでゆかれた臨済禅師なども、この心こそ仏であり、あなたこそ仏であると終始説き続けられたのでした。
そこで、臨済禅師は次のように御説法なされています。
岩波武庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用させてもらいます。
「このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。
もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。」
というのであります。
それだから臨済禅師は、「たとい孤峰に独居し、一日一食の戒を守り、横にもならず坐禅に明け暮れし、昼夜定められた時間の勤行にはげんだとしても、それもみな迷いの業を作っている人にすぎない」とまで説かれています。
そこで臨済禅師は、「君たち、その祖仏に会いたいと思うか。
今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。」
と喝破されました。
あなたこそ仏だというのです。
そう言われても、私たちは、そうですと信じ切れないものです。
臨済禅師も「君たちはこれを信じきれないために、外に向って求める。
しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。」
と説いてくださっています。
何を信じるのかというと、朝比奈宗源老師は、『獅子吼』の中で具体的に説いてくださっています。
「皆さん、いつもいう、みなさんがそこで私の話をきいておいでになるもの、花を見れば花、若葉を見れば若葉と、見わけたり、喜んだり悲しんだりしている心、それは、一般に思っているようにつまらないものではなく、その心の本体は、死に生きもなく、生き通しのもの、しかも、私共がつい迷っていろいろの罪や過ちを犯しましても、決して汚れも穢れもしない尊いもの、私共の体は二メートルにたらない小さなものですが、その心は天地いっぱい、宇宙に満ち満ちているものなのです。」ということなのです。
更に朝比奈老師は、
「ですから、人間は佛心の中に生まれ、佛心の中に住み、佛心の中で息を引きとる。
佛心とは一秒時もはなれない尊いものなのです。
人間とはそんなすばらしいもの、お釈迦さまも、達磨さまも、この佛心をさとって安心され、今までそれがわからないために、死んだらどうなるか、どんな恐ろしい世界へ行かねばならないかと、苦しんだことは夢の中の出来事のようなもの、人間とはなんとすばらしいもの、尊いものかとお喜びになった、それを教えられたのが、佛教であり、禅であります。」
と示されています。
朝比奈老師は「そこで、まずこの佛心の尊いこと、私共は佛心そのものであることを信じることが第一、それを信じて坐禅もする。」
と説かれいます。
信とは、どういうことなのか、岩波書店の『仏教辞典』には、「「対象(仏や教義)に対する客観的・知的理解に基づく信頼・信用を意味し、宗教的行為を起こさしめる原動力でもある。」と説かれています。
まずは知的に理解して、そこから素晴らしいと感動して、よし自分もやってみようと意欲を起して、その上でなるほど確かである、間違いないと確信するのであります。
信じるといっても簡単ではないと思われるかもしれません。
そう簡単に信じ切れないと思ったりもします。
しかし、考えてみれば、私どもこの世に生まれてきたのは、みな信じて生まれ育ってきているものです。
生まれた頃には、なにもできませんでしたので、母親の懐に抱かれて、完全に信じ切って母親に育ててもらってきたのでした。
その時にいちいち疑ったりはしません。
今も毎晩夜寝るときには、明日もある、明日も目が覚めると信じ切って眠っています。
もっと単純に考えると、信というのは、誰しもができるものです。
そして習ったり、稽古したりせずとも生まれながらにして出来るものであります。
仏心の中にあると信じるのも同じであります。
すなおな心になって信じるのです。
信じて坐るというところが有り難いものです。
横田南嶺