毎日が楽しくなる – 甲野陽紀先生に教わって –
甲野陽紀先生は、甲野善紀先生のご子息であります。
八月二十九日の管長日記に、「驚きの講座ー甲野陽紀先生に教わるー」と題して書いています。
前回あまりにも感動した講座だったので、是非とももう一度と思ってお願いしたのでした。
前回は、お盆の終わった頃で、修行僧も自分のお寺に帰っている者も多かった為、今回初めてという者もかなりいたのでした。
そこではじめの方は、前回の復習を行ってもらいました。
甲野先生の講座は、どういうことを行うのかというと、ご著書の『身体は「わたし」を映す間鏡である』(和器出版株式会社)には、次のように書かれています。
「一言でいうと、私「甲野陽紀」がみなさんと一緒にやっていることは実は、「一つ」しかありません。
もちろん、動きを一つ一つ種類に分けるなら、たくさんの動きを実際には試してもらいます。
でも、私がみなさんと一緒に経験したいと思っていることは、たった一つのことなのです。
それは、「ふだんあたりまえにしている動き」を、「新しい身体の経験」として自覚的に体験してもらうこと。」
というのであります。
今回も「注意の向け方」と「身体の動き」がどのように関係しているかについて色々と学びました。
甲野先生は、「「注意の向け方」というのは、「どこを目で見ているか」ということではなく、「どこに自分の注意を向けているか」ということです。」
と説かれています。
そして「この「注意の向け方」と「身体」というのは多くの方が思っている以上に身体の内側で深く結びついていて、「注意をどこに向けていくか」によって、身体の安定感として端的に表れるような「動きの質」が大きく変わってくるのです。」
というのです。
前回は、指先に注意を向けるということを体験しました。
甲野先生が「その立ち姿勢のまま、みなさんの注意を指先に向けてみてください」というと、それまで漠然としていた注意が指先に向けられます。
「指先に注意を向けてくださいという言葉をその人の身体が理解した瞬間、考えなくとも身体の内側を走る注意は指先に向かいますから、心配はいりません。
はじめて体験される方には、その一言で立ち姿勢自体が変化したようには見えないと思いますが(経験を積んでくるとその変わり様は見ていてわかります)、実はその瞬間、身体はもう百八十度変わったといっていいぐらい大きく変わっているのです。
試しに、近くにいる人に肩を左右に軽く押してもらってください。
ふだんの立ち方では肩を左右に軽く押されただけでぐらついてしまう人でも、見た目でもはっきりわかるほど安定感が増すはずです。
強めに押してもらうと、粘りのある立木の幹が揺れる程度には身体は振れますが、「でも大きくは崩れない」という感触を、身体の内側でしっかり感じとることができるでしょう。」
というのです。
前回はこの実験から始まりました。
立つという実にあたりまえのことが、まるではじめてすることのように変わるのです。
今回は、手の内に注意を向けることから始まりました。
甲野先生は、末端から順に動き、末端が動けること、末端の状態が全身に波及すると説かれます。
実際に両手を肩の高さくらいにあげて、手の内に注意を向けて手の内を開く、閉じるとやっていて、横から押してもその人はほとんど動かないくらい安定しているのです。
ところが、注意を手に向けて、手を閉じる開くとやっていると、横から押されるともろくなってしまっているのです。
手の内というと平面ですが、手というと、手の甲もはいって立体的になってしまいます。
そうすると漠然としてしまいます。
はっきり手の内を注意することによって身体が変化するのです。
末端の状態が全身に波及するのです。
このように末端に注意を向けることによって大きく変わるのです。
今回は更に、手の内の圧ということを学びました。
圧力の「圧」です。
しっかり握って、握った圧を保つように注意を向けるのです。
力一杯に握った圧を十として、いまいくつくらいの圧で握っているか、その圧を保ったまま立っていると、横から押されても動かないほど安定しているのです。
しかし、握った手の形を保とうとすると身体はいっぺんに不安定になってしまいます。
圧を保つと末端が動ける状態になり、形を保とうとすると末端が固まるのだというのです。
動けるということは、押されても柔軟にその力を吸収できます。
固まっていると、押されたら、崩れるしかないのです。
そうして、私たちが毎日行っている礼拝を丁寧に教わりました。
これも手の内に注意を向けることによって、全く動きが変わるのです。
また坐る時には、膝の表に注意を向けることで、実に楽にスムーズに坐ることができるようになります。
まず手の内に注意を向けて手の内を合わせた状態は合掌の姿です。
私達はいつも行っているものです。
この合掌も手の内に注意を向けていますので、これだけで身体が安定しているのです。
ただ普段は手を合わせてもただ漫然と合わせているだけで、意識できていません。
手の内に注意を向けて礼拝すると全然動きが変わることには驚きました。
毎日行っている礼拝という「ふだんあたりまえにしている動き」が、注意の向け方で「新しい身体の経験」となったのでした。
また手を胸に合わせて歩くのも同じです。
叉手といって私達は、普段胸の前に手を合わせて歩くのですが、これも手の内に注意を向けて歩くと、肩も揺れずに安定して歩けるのです。
そんな様子で、普段行っていた「あたりまえの動き」が「まるではじめてする動き」であるかのような新鮮な体感に変わったのでした。
日常の動作が皆ほとけの営みであるという禅の教えをより一層体感できるのであります。
また普段の動作がより一層丁寧に行うように自然となります。
こんなことをいつも注意していると、実に毎日の修行が楽しくなるものです。
横田南嶺