死とは何か
まだ生についても分っていないのに、どうして死についてまで分ろうかということです。
お釈迦様もまた死後の世界について言及されなかったと言います。
ただ、死をどう受けとめるかということは大切な問題であります。
あらかじめ死についてどう受けとめるか、考えておかないといざ死を迎える時になってジタバタしてしまうと古の祖師も説かれています。
先日PHP研究所の企画で、片柳弘史神父と対談をさせていただくというご縁に恵まれました。
片柳神父について、今年の二月九日の管長日記に書いています。
もう何度かお目にかかっていますので、親しみを覚えていて、楽に対談させてもらいました。
ただ今回のテーマは、「宗教にとって死とは何か」という重い課題であります。
私は、まず死生観について考えると、もう二十数年も前に読んだ、ある和尚の記事を思い起こします。
こんな話です。
その和尚が、小学三年の時、結核にかかり休学して病床に伏しました。
当時は、まだ結核が死の病だったころだと思います。
その和尚もまた、幼なごころに「このまま死んでしまうのでは」という恐怖を感じたといいます。
時に暗闇の古井戸に落ちていく夢を見て悲鳴を上げて目を覚ますこともあったようです。
そんなとき住職を務めるお父様が優しく背中をさすりながらこんな風船の話をしてくれたというのです。
「赤い風船が針で刺されて破れても心配はいらない。
中の空気は外に出て行き、お空の空気と合流するだけ。
いのちも同じで人は死んでも終わりにならない。
大きないのちと合流しまた新しいいのちが生まれる。」
という話しだったのでした。
そこで和尚は
「人が死に直面したとき、いのちとは何かを真剣に考える。
死は肉体を滅ぼすがいのちは永遠ということに気づく人も多い。
すると死の恐怖感から解放されるんです。」と書かれていたのでした。
古いノートに書き写した話です。
朝比奈宗源老師は、死について幼少の頃から疑問に思って修行されて、仏心の世界を説かれました。
「常にお互いが頼りにし、お互いの生活の根底としている意識そのものには実体は無く、その意識の尽きたところに永遠に変わらぬ、始めもなく終わりもなく、常に清らかに常に安らかに、常に静かな光明に満たされている仏心があると悟り、あらゆるいのちあるもの皆仏心を具えている。
仏心は絶対であり、私どもは仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る。
仏心から外れて生きることも、仏心の外に出ることもできない。
私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。
生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。私どもは皆仏心の一滴である。
一滴の水を離れて大海はなく、幻の如きはかない命がそのまま永劫不滅の仏心の大生命である。」
という教えであります。
仏教にも死生観はさまざまございます。
阿弥陀様に救われて御浄土に生まれるという教えもあります。
片柳神父は、死は完成であり、ゴールインなのだと説かれました。
使命を果たし抜いて走り抜いたのだというのです。
与えられた命に感謝して死を迎えるのです。
イモムシの喩えが印象に残りました。
イモムシは、蝶になります。
まったく姿を変えたものになるのです。
イモムシにとっては、蝶になったイモムシはどこに行ったのか分りません。
理解することもできないのです。
ただ一緒にいたイモムシがいなくなって、寂しい思いをしたり、探したりしてしまいます。
しかし、そのイモムシは、既に蝶になって大空を飛んでいるのです。
イモムシには分らない世界で自由に飛んでいるのです。
人の死も同じようなもので、新しい命となって生まれているという話なのです。
仏教では今日、どうしてもお亡くなりになった後の葬儀に携わることがほとんどで、病院で死を迎える方に教えを説くことは少ないのです。
もっともこの頃は、臨床宗教師や臨床仏教師というのもございます。
花園大学でも臨床仏教師の講座を開いたりしています。
キリスト教には、早くからチャプレンというのがあります。
チャプレンとは、『広辞苑』には、
「学校・病院・刑務所など、教会関係あるいは教会外の団体や施設に奉仕するキリスト教の聖職者。」
という意味です。
まさに病院などで死にゆく者に寄り添うのであります。
片柳神父は、キリストのなさったことは、寄り添うことなのだと教えてくださいました。
寄り添うとは、一緒に苦しむことであり、それが救いになるというのです。
喩えとして、ローマ教皇の話をなさいました。
ローマ教皇ベネディクト16世が、東日本大震災で多くの仲間を失ったという少女に、なぜこんな目に遭うのか、なぜ神様は助けてくれないのかと質問されたというのです。
その時に教皇様は、分らないと正直にお答えになって、涙を流されたという話です。
片柳神父は、その涙が答えなのですと仰いました。
深い話であります。
死についての話から、認知症のことにも話が及びました。
生老病死の四つの苦しみを仏教では説きますが、この頃はこの認知症の苦しみもございます。
認知症の神父様の話なのでした。
ある認知症の方は、先ほど食事をしたのに食べたことを忘れて、食事を要求します。
すると、もう一人の認知症の方は、まだ食事をしていないのに、食事をしていないことを忘れてしまって、自分はもう食事をしたから、どうぞお召し上がりくださいといって、自分の食事を差し出したという話です。
どちらも認知症で忘れてしまっているのですが、もっと欲しいというのと、差し上げましょうというのとで大きな違いであります。
認知症でどのようになってしまうかは分りません。
ただある神父様が、まったく言葉も忘れてしまったのですが耳元でアベマリアの祈りの出だしを言うと、その神父様はすらすらと全文が口から出てきたというのです。
きっと脳の深いところに残っているのではないかという話でした。
私たちもすべてを忘れても脳の深いところでは感謝の心が残っているように、普段から感謝の暮らしをしたいものだと話をしたのでした。
横田南嶺