三つの言葉でいい
かかるときぜにぜにぜにと蝉が鳴く
というのです。
川柳作家の岩井三窓さんの作だそうです。
「編集手帳」には、
「物価の上昇は止まらない。
スーパーの品々の値札にため息をついても、愚痴をこぼす先には困る。」
と書かれています。
ノーベル賞を受賞された大村智先生の講演を拝聴していて、小林一三の「金がないからなにもできないという人間は、金があっても何もできない」という言葉を引用されていましたが、それでもある程度のお金がないと困るものであります。
「編集手帳」は更に
「そう思っていたところ、長野市の若者ふたりの記事を読んだ。
ボランティアで「愚痴聞き屋」を七年続けているという公務員の奥山宗思さん (三一)と、会社員の小林孝平さん(二九)。
週末、駅前にマットを敷いて座り、道行く人の恋や仕事の悩みに無料で耳を傾けてきた。
他人の愚痴とはげんなりしそうだけれど、「様々な考え方を吸収できる」とむしろ感謝する。
助言は一切せず、「それはつらいね」などと相づちを打つだけという。」
という二人の青年のことを紹介しています。
このお二人は、二〇一六年から二~三か月に一回のペースでこの「愚癡聞き屋」を続けてきているそうなのです。
二人の活動は仕事終わりの金曜、土曜の午後八時から三時間程度なのだそうです。
時には、対話の流れ次第で日付をまたぐこともあるというのです。
助言はしないというのですが、「アドバイスはくれなかったけど、何も気にせずに話せた」と、聞いてもらった人は満足されるそうなのです。
初対面だからこそ話しやすいという一面もあるといいます。
「編集手帳」には、
「そういえば、作家の瀬戸内寂聴さんが自著に記していた。
悩みごとを言葉にした人は固い心に風穴が開く。
そこに風が入って自分を客観的に見つめ、答えを得る端緒になる(『笑って生ききる』 中公ラクレ)」
という瀬戸内さんの言葉を紹介していました。
たしかに悩んでいることを、言葉にしてみるだけで、冷静に考えることができるようになります。
整理ができる一面もあるものです。
少し客観的になることもできます。
それに聞いてもらえたことが安心感にもなります。
先代の管長がよく言っていたことを思い出しました。
先代はよく新しい住職ができたりすると必ず言っていたことがあります。
それは住職というのは、あまり多くを語ってはいけない、しゃべってはいけない、とにかく人の話を聞くことが大事だということです。
そして、こちらが語る言葉は三つでよいと仰せになっていました。
三語族でいいと仰るのです。
かつて三語族というのがありました。
たしか、「めし、ふろ、ねる」の三つの言葉しか使わないということだったと思います。
これは良い使い方ではありません。
先代が仰っていたお坊さんの三語とはどんな言葉かというと、まずとにかく、お茶でも出して、こちらが坐禅の要領で肩の力を向いてゆったりと丹田に気力を充たしてどっしりと落ち着いて坐って、楽にして、向こうの言うことをとにかく聞きなさい、そして話しかけられたら只ひたすら、「ああそう、ああそう」と聞き役に徹しなさいということです。
まず第一の言葉が「ああそう」なのです。
そしてただひたすら相づちだけ打ってとことん聞いてあげて、その話が、たとえば孫が学校に入ったとか、うれしい話ならば、最後に全部話し終わったときに、「よかったね」と言って喜んであげなさい。
逆につらい話、苦しい事ならば話し終わった後に、「困ったね」と言ってあげなさい。それだけでよいというのです。
この「ああそう」と「困ったね」と「よかったね」の三つの言葉で済むとお説きになるのです。
その時に決して、それならこうしなさいと助言はしてはいけないと厳しく仰せになっていました。
私もおそばでいつもこの話を聴いていて、少しは助言もしないと相手も困るのではないかと思ったものです。
しかし、ある時に、先代のもとにある母親が訪ねてきたことがありました。
長い長い時間、話を聴いておられました。
ご夫人が帰ったあと、私にしみじみ仰ったことがあります。
その母親の息子さんが、たしか小学六年生とかで、サッカーを一生懸命になさっていたのでした。
ところが骨肉腫かにかかって右足を切断しなければならなくなったというのです。
足を切ってサッカーができないくらいなら死んだ方がましだと息子は訴えて、いうことをきかないというのです。
それで先代の管長に相談に見えたのでした。
管長はしみじみと、
そう言われてもなあ、足を切ればいいなんて言えないよと仰せになっていました。
そう語る先代の目には涙がにじんでいたのを覚えています。
先代が強調してくれていたのは、悲しい話、辛い話を聴くときは、こちらも辛く悲しい気持ちになりきるのだということでした。
こちらを無にして相手になりきる、そのために我々は坐禅をしているのだと教えてくださったのでした。
相手の話を親身になって聴いてあげることができたら、その人は、観音様だと言って良いでしょう。
「愚痴聞き屋」の青年二人は、今の世の観音様だと思います。
読売新聞「編集手帳」の話を読んで、三つの言葉でいいという先代の管長の教えをしみじみ思い起こしました。
横田南嶺